登校拒否の部屋
登校拒否、不登校、引きこもり、青少年問題を子どもの立場から考えます。 参考 登校拒否研究室 インターネット小児心療内科医院

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自己否定

 人間の心には思考の要素、知識の要素、感情の要素があります。人間の感情の元になる情動反応を起こす刺激には、大きく分けて接近系と回避系とに分けられます。これはあくまでも便宜的な分け方です。脳の中でそのような反応の仕組みになっていますが、構造的になっているのではありません。子どもでは、幼ければ幼いほど、思考の要素が少なくて、感情の要素が大きな割合を占めています。知識の要素は年齢とともに増えていきます。

 登校拒否、不登校、引きこもりの子どもたちでは、普通の子どもでは何でもないか、時には喜びと感じる学校等(接近系)を、辛いと、つまり回避系の刺激と感じるようになっています。なぜ接近系の刺激が、登校拒否、不登校、引きこもりの子ども達では回避系の刺激になったのか、その理由は省略します。それと同じような物であるが、大人として理解できる物として、蛇が怖いとか、お化けが怖いとか、高いところが怖いとかがあります。

 この事実はその子ども特有であり、他の人から見たら理解できないから、変な子どもだ、おかしな子どもだ、病気の子どもだと理解されるようになります。そのために、その子どもを普通の子どもと同じようにしなければならない、直さなければならないとして、その子どもに関わります。子ども自身もその子ども特有の回避系の刺激から逃れることができなくなって、辛い自分を反射的(知識として、習慣の心から)に否定しているかのような表現をしたり、行動をとるようになります。

 自己否定を脳科学的に考えるときには、 欲求不慢性無報酬という哺乳類としての神経生理を考える必要があります。それはこうあるべきという知識を持ち続けていたとき、そのこうあるべきと言う知識を否定されたとき、恐怖の反応が体中に生じるというものです。登校拒否、不登校では「学校には行くべき」という知識が、引きこもりでは「社会に出て活動すべき」という知識があり、登校拒否、不登校、引きこもりの子ども達は現実にそれができないといういうことに直面したとき、子ども達は恐怖の反応を生じてしまいます。子ども達は辛い状態になってしまいます。それを知識から、「ダメな人間と判断した」と理解して、自己否定という言葉を当てはめています。
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【2005/02/28 10:20】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

不登校の子ども達の声が届いていない

不登校の子ども達の声が届いていない

 現在不登校や引きこもりの問題が社会問題になっています。不登校の子どもの数を減らすこと、引きこもりの子どもの数を減らすことが、地方の自治体の課題の一つになっています。その課題を達成するために、地方の自治体では何々相談員という名前で、また、何々支援員と言う名前で、不登校や引きこもりに対応する人、不登校や引きこもりの子ども達に関わろうとする人を用意している自治体があります。これから用意をしようとする自治体があります。学校に相談室を作って、子ども達の相談や家庭訪問をさせていますし、させる予定のようです。これらの自治体の対応では「学校復帰を優先するのではなく、子どもに寄り添った支援をする」といううたい文句のようです。

 そのような仕組みを作ることは行政側の論理からの対応でしょう。不登校で辛い状態の子ども達は、相談員などの他人に助けを求めているのではありません。自分の親に対して不登校を認めてくれと訴えています。それを言葉で表現している子どももいますが、多くの子どもは言葉では「学校に行きたい」と言いながら、行動で「親に対して不登校を認めてくれ」と訴え続けています。この相矛盾する子どもの訴えでは、行動で親に不登校を認めてくれという子どもの訴えが、子どもの本心からの訴えです。ですから、「子どもに寄り添った支援」とは、子どもの不登校を認める、子どもを静かに引きこもらせてあげるという意味になります。子どもの心に寄り添った対応をする相談員とは、親に不登校や引きこもりを認めさせるような対応をとる人たちでなければなりません。

 相談員などの役割には、「家庭訪問などもして、不登校の未然防止を図る」とあります。不登校を未然に防ぐには、不登校とはどうして生じるか、その仕組みを理解する必要があります。不登校とは学校に問題があって子どもが学校に行きづらくなった状態です。子どもに問題があるのではありません。学校内の子ども達が不登校になるような問題を解決するのなら不登校を未然に防ぐ意味があります。すでに学校に行きづらくなった子どもは学校内の問題が解決しない限り学校には行きづらいままです。自治体の対応が、その行きづらい学校へ子ども達を行かそうとする対応なら、子どもはますます学校を拒否して、相談員などを拒否して、そして親を拒否して、とても辛い状態になります。

 不登校の子どもは親に不登校を認めてくれと行動で訴えています。他の人には関わって欲しくないと訴えています。相談員などと関わるのは嫌だと、不登校の子ども達はいっています。それを言葉で言う場合もありますが、多くは行動や症状で表現しています。相談員などが来ると拒否したり、逃げ出したり、不登校の子ども達は行動で表現しています。すなわち、不登校の子どもに寄り添う関わり方とは、学校関係者や相談員など、不登校の子どもに関わろうとする人たちが、子どもに関わらないことなのです。不登校の子どもに関わらないで、その親に子供の不登校を認めさせるような対応をとることです。

 確かに中学1年時に不登校が急増する傾向にあることは事実です。それは中学校の学校自体に問題があるからです。教師の生徒への対応法や、学級運営、学校運営に問題があるからです。子ども達が中学生活に慣れていないというような問題ではありません。中学校で子ども達の心が傷ついてしまうから、子ども達が不登校になっています。ただし、中学校に入学する時点で、すでに子ども達の心がストレスに敏感になっていて、中学校に入って心が傷つきやすくなっているという事実もあるでしょう。例えそうだとしても、中学校の教師により子どもの心が傷つけられて良いという理由には成りません。子どもがそれほど傷つき易い状態であるなら、教師もそれなりの心構えをして子ども達への対応をすべきです。

 現在教師の方は勉学を教えるだけでは勤まらない時代になっています。教師の子ども達の心を理解する能力も必要になっています。教師の子ども達の心を理解する能力をつけないなら、心が傷つく子ども達は無くならないでしょう。それは不登校の問題は解決しないことを意味しています。昔からの熱血先生で良い生徒もいます。けれど不登校の子どもの問題を考えるなら、生徒の心のわかる先生と言う意味で、先生の質を変えない限り、そして、子どもの心が学校で傷ついて不登校になっているという事実を理解しない限り、自治体や学校側が目先の対応を変えても、不登校の問題は解決しません。
【2005/02/27 08:18】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

不登校の原因は学校に

子どもは子どもの集団を求めます。心に問題のない子どもは幼稚園や学校など、子どもの集団を本能的に求めます。もし子どもの家庭に問題があったら、子どもは家庭を回避しようとします。つまり家に帰らないという意味です。たとえば家出をする子どもです。

学校に問題があったら、子どもは学校を回避しようとします。学校を回避して、いやすい所、たとえば家庭に逃げてしまいます。それが登校拒否、不登校です。

家庭に問題があって学校を回避して家庭に逃げ出したとしたなら、学校に家庭以上の問題点があったと言うことになります。もし、学校に問題点がなければ、子どもは家庭に帰らないで、学校に居続けます。登校拒否、不登校になることはありません。

家庭に問題があって、学校を回避して家庭に逃げ出したとしたなら、そして学校に問題がないと言うのなら、その言う人は、子どもにとって、学校内に家庭以上の問題点があることに気づいていないことになります。

親が「学校に家庭以上の問題点があること」に気づかないのは、ある意味でやむを得ないことです。つまり、親が親で学校に問題点がないと判断しても、子どもは自分の心で学校に家庭以上の問題点があるから、問題点のより少ない家庭に逃げ帰っているのですから。問題点のあるなしの判断は、子どもしかできないのですから。

ですから、この場合、親の方で学校に問題がない、家庭に問題があると考えていても、それは親の判断であり、子どもの判断は、学校に問題があり、家庭に問題があったとしても、それは学校の問題よりは、たいしたことがないというように子どもが判断していると言う意味です。親の判断と子どもの判断とずれているという意味です。
【2005/02/26 08:54】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

平常心と子ども

 平常心はまた不動心というものを、別の見方をしてみます。それは、人が遭遇する回避系の刺激(接近系の場合もあるが、問題になるのは主として回避系)に対して、その人として一番良い対応をするという意味だと思います。これらの刺激を受けたとき、反応の混乱(情動の心の反応、パニック状)を起こさないで、意識的(多くの場合考えている暇がない?)に、または無意識的(主として習慣の心から、あらかじめ学んでおいた陳述記憶や操作記憶を用いて)に、その人にとって好ましい反応をすることだと思います。

 そのためにはあらゆる可能性を想定(すでに想定して武道という体系を作ってある)して、繰り返す学習(訓練)し、その対処法を学習して、記憶にしておく必要があります。受けた刺激に対して、正確に対応法を思い出す必要があります。あらゆる刺激に対して、それを処理できる自信ができている必要があると思います。

 まだ直面していない回避系の刺激(練習、または、訓練の時点では、きっと無関刺激だと思います)の対処法を、繰り返し操作記憶として記憶する(練習する)作業なのですから、その記憶する作業に対するご褒美が必要(意味がないことをするための動機として接近系の刺激が必要)です。操作記憶を記憶する楽しさ=体を動かす、運動する楽しさ。上達する楽しさ、子どもにとっては、それは上達することで指導者から、特に親からほめられる(誉めるというご褒美)が必要だと思います。

 武道に限らず、子どもの心の発展性のためには、親や指導者は、接近系の刺激を主として与えた方が良いと思います。練習という操作記憶の学習を続けるには、子どもにはご褒美が必要だという意味です。十分にご褒美が与えられているなら、その中で若干の回避系の刺激があっても大丈夫だと思います。武道などの競争を伴う学習法では、子どもにとって回避系の刺激が必然的に生じてきます。そのことも考慮しておく必要があります。それらの回避系の刺激の大きさがご褒美である接近系の刺激の大きさを越えてはならないです。
【2005/02/25 13:07】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

家庭で心の傷を癒す

 心の傷とは、恐怖の条件反射です。心が傷つくとは、恐怖の条件刺激を学習することです。登校拒否、不登校においては、恐怖の条件刺激は学校や学校に関するものです。登校拒否、不登校の子どもでは、学校や学校に関するものに出会うと、体全体に恐怖を表現して、逃げだそうとしたり、学校へ行かそうとする人に攻撃したり、それらができないときには神経症状や精神症状を出すことになります。

 恐怖の条件反射でおわかりのように、人が恐怖刺激を受けたとき、人の周囲にあるもの(登校拒否、不登校の子どもでは学校で恐怖体験をしているために、学校または学校に関するもの)を恐怖の条件刺激として学習します。受けた恐怖刺激が強いと、数回の今日体験で恐怖の条件刺激を学習し、それ以後、恐怖の条件刺激に出会うと、今までは何でもなかった恐怖の条件刺激に反応して、体中に恐怖を表現するようになります。また、それ以後、恐怖刺激があるごとに恐怖の条件刺激の学習を強化していきます。恐怖の条件刺激に出会ったときに、より強く恐怖を表現するようになります。恐怖を表現できないときには、体中にいろいろな神経症状や精神症状を生じるようになります。

 恐怖の条件刺激を学習したとしても、恐怖の条件刺激に出会わさなければ、人は普通に生活できます。子どもも普通に成長できます。そして、長い時間恐怖の条件刺激に出会わなければ、生理的現象として、時間とともに恐怖の条件反射は弱まっていき、最終的には消失したと思われるぐらいに弱まっていきます。恐怖の条件刺激に出会っても、恐怖の条件反射で生じる恐怖の反応は弱まってしまいます。日常生活上問題を生じることがなくなります。

 登校拒否、不登校では、学習した恐怖の条件刺激は学校または学校に関するものです。そのために、登校拒否、不登校の子どもは恐怖の条件刺激である学校や学校に関するものに出会わないようにしなければなりません。子どもの居場所は家庭ですから、家庭が子どもには安全な場所でなければならないのです。登校拒否、不登校の子どもがいる家庭には、学校または学校に関するものがあってはならないのです。家庭という安全な場所で時間をかけて、恐怖の条件反射を弱めていく必要があります。そのための時間は、登校拒否、不登校では、早くても何年、遅いと大人になるまでかかります。
【2005/02/24 07:55】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの生きる姿

子どもの生きる姿、本当の姿は本能で生きている(本当は情動)ています。その姿とは別に、子どもは習慣の心でも生きています。年齢とともに、習慣の心の割合が増えていきます。そして情動がきわめて落ち着いているときには、思考の心が働きます。

子どもは人間の形をして、時には大人顔負けの言葉を発し、大人顔負けの行動をします(これらは習慣の心からの反応です)。ですから、大人は、子どもは大人を未熟にしたも、経験不足の人間と考えがちですが、そうではないのです。そして、思春期を過ぎると急激に大人の人間になっていきます。思考で情動を調節して、生きていくようになります。

子どもと大人と心の構造が違う、子どもには子どもの心にあった対応が必要であり、大人の間で成立する人間のあり方は、子どもには当てはまらないのです。子どもの心にあった対応とは、確かに大人と比べて子どもは経験不足ですが、その子どもなりに十分に経験しています。子どもの反応はその経験によるものと、情動によるものから、一人前になされています。その情動も大人のように歪められていないので、とても鋭く強く反応します。それが子どもとして生理的なのです。

それらが大人と違うから、子どもっぽい、それではダメだと大人が判断する限り、大人から程度の差はあっても子どもたちを苦しめることになります。いくら子どものためと言って、一生懸命子どもに対応しても、子どものそのままのあり方を否定している限り、子どもたちは受け入れてくれません。受け入れたと思えても、それは子どもたちの方で、大人のために良い子を演じているだけのことなのです。

これらの事実に気づいている人もいます。けれどきわめて少数です。多くの大人は、動物や植物を育てるように、子どもを育てればよいと考えているようです。そして、このカテで私を非難している人たちも、この事実に全く気づいていません。

動物や植物を育てるように育てられた子どもの多くは、見かけは大人と同じように育つでしょう。大人の見ている前では大人の思いに沿った行動をするでしょう。けれど人間としての心は育っていません。育っていないところがあると表現した方が正確でしょう。大人の見ていないところでは、それとはまるで逆の、好ましくない行動をとるようになります。大人の見ていないところでの行動の仕方の心が育っていないからです。
【2005/02/23 08:20】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

インナーチャイルド

子ども(少なくとも思春期以前)には、大人の考え方を当てはめない方が良いです。子どもは形も人間だし、言葉もしゃべります。大人のようなことも言えます。

けれど、心は類人猿に近いです。類人猿で当てはまることが子どもの心に当てはまります。子どもが大人のようなことをするのは、大人の真似(猿まね)であり、決して子どもの心から大人のようなことができるのではありません。

子どもは思春期頃からぼつぼつ、子ども自身の心から大人と同じことができるようになります。ただし、子どもの心が辛い状態だと、それも働かないで、小さな子どもと同じような心の反応をします。

それをインナーチャイルドと表現している場合がありますが、これは幼児性が子どもの心の中にあるのではなくて、刺激に対して情動が素直に働いてしまう心の姿だからです。その心の姿が幼児の心の姿だからです。

そして心が辛い状態でなければ、子どもは思春期頃から急激に大人の心になっていきます。大人の論理が子どもに通じるようになります。
【2005/02/22 08:27】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

家庭内暴力

 登校拒否、不登校、引きこもりの子どもは親が大好きです。自分の命ぐらい大切です。なのになぜ親に向かって暴力を振るうのでしょうか?それは決して親をやっつけてやりたい、親を懲らしめたい、親に仕返しをしてやりたい、と思って暴力を振るっているのではありません。大好きな親だからこそ、「わかってよ」と言う意味で、無意識に暴力を振るっています。他の方法では自分の辛さが親に通じなかったから、最後の手段として、命を懸けて無意識に暴力を振るっています。

 登校拒否、不登校、引きこもりの子ども達はとても優しいです。とても暴力を振るえるような子どもではありません。学校でのいろいろな辛いことに耐えて、耐えきれなくなって家庭に帰ってきています。その家庭から学校や家の外へ押し出されると、とても辛くなります。押し出されようとしても、それだけでもとても辛くなります。その辛さを親に説明しても親には通じなかったのです。その結果説明をするのを無意識にあきらめて、無意識に暴力を振るうことで、「私を理解してよ、わかってよ」と言う意味で暴力を振るいます。だから、親が子供の辛い気持ちを理解できたなら、子どもはすぐに暴力を止めます。

 登校拒否、不登校、引きこもりの子ども達は、それだけでとても辛いのです。親の期待に応えられない自分を認識するととても辛くて、自分をダメな人間だと判断してしまっています。親や先生から「こうしなければいけない」と言われ続けてきたことができなくて、生きていない方がよいと感じてしまいます。自分のあるべき姿と考えている物と異なっている自分の存在を許せないのです。けれど死ぬことは生物としてできないのです。それは自分を存在させた親を責めることになります。ちょっとしたことで親を攻撃してしまいます。それは意識的な暴力ではありません。「死ぬほど辛いんだよ」と言う子どもから無意識に発せられるMSGです。ですから、子どもが辛ければ辛いほど、親や親が大切にしている物への暴力がひどくなります。

登校拒否、不登校、引きこもりの子ども達はとても親に優しいです。親に暴力を振るっているときは無意識に反射的に行っています。暴力を振るい終わって、我に返って、大好きな親に暴力を振るったことを認識したとき、今度は大好きな親に暴力を振るった自分を責めることになります。そのような行為をした自分をダメな人間だと決めつけることになり、ますます辛い状態になってしまいます。

 子どもが親に暴力を振るうことで、「自分の辛さをわかってよ」と訴えています。言葉では親に通じないから、暴力で訴えています。「親を辛い目に遭わせて何で訴えていると言えるのだ」と、非難される方もいらっしゃると思います。それは、子どもは訴え続けて来たのに、親や大人は気づいてくれないから、訴えが届かないから、苦しくて、苦しくてしょうがないから、最終手段として無意識に暴力で訴えているという事実です。暴力を振るうことで親が子供の訴えに気づいてくれることを待っています。子どもの訴えに気づいて、親が子どもの辛さを理解して受け入れてくれることを待っています。親が子どもを理解できなくても、少なくとも子どもの振るう暴力がそれにはそれなりの意味があるのだと受け入れて、子どもと一緒に苦しんでくれると、子どもは親を信頼しだして、暴力を振るうのを止めます。
【2005/02/21 07:26】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

不登校の子どもに代わって訴えます

子どもの立場から全ての大人に訴えたいです。子どもが不登校になった時点では、親や先生が子どもの不登校に気づいた時点では、大人や親は、子どもが学校をさぼりたいから、ずるをしたいから、怠けたいからとかいろいろと理由を付けます。もっとがんばれるはずだと思います。

けれど子どもが不登校になると言うことは、子どもが我慢をし続けて、辛さに耐え続けて、どうにもならなくなって学校には行かないと言う行動に出ています。子どもが不登校になった時点では、子どもとしては、できることは全てした、妥協の余地がない、子どもとしてはどうにもならない、と言う意味なのです。

これはほぼ全ての不登校の子どもに当てはまります。
【2005/02/20 08:21】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

17歳少年事件

報道からは、今回の少年の事件の内容が見えてきません。あくまでも推測で述べてみます。

少年はまじめなおとなしい正確です。小学校時代は勉強についていけました。それはきっと、親から勉強させられていたのだと思います。また、それに答えられるだけの知的な少年だったと思います。

少年は小学校の職員室で心が傷つけられました。その心を傷つけた先生が、今回小学校にいらして、少年は報復に出かけたのだと思います。

なぜ少年が心を傷つけた先生に報復しようと反応したのか、それは以下のようになると思います。少年は先生により心を傷つけられました。けれど不登校になれずに、親によって学校に行き続けさせられました。小学校ではとても辛い毎日を送り続けたのだと思います。中学校に入って、親に対して反撃できるようになり、不登校が認められなくても、学校には行かない少年ができるようになりました。けれど、学校に行くように、勉強をするように親から責められて、とても辛い毎日を過ごしていたと思います。その辛さを解消するためにゲームや漫画、ビデオに浸っていたと思います。

それらのゲームやビデオ、漫画の中で、人を殺すことを模擬体験してしまったのでしょう。少年がとても辛かったとき、無意識に、機械的に、模擬体験の行動に出てしまいました。現実とヴァーチャルの世界が区別できなくなったのです。

少年は特に計画を練ったわけではありません。模擬体験した通りに刃物を得て、学校に出向いています。模擬体験とほぼ同じように事柄がすすんでいったので、少年には迷いはなかったはずです。学校に入り、報復する先生のいる教員室を目指して進んでいきました。

殺された先生がどのようにして刺されたのか私にはわかりません。けれどきっと少年の行く道を妨害したから、模擬体験に沿って少年は刃物を先生に振るいました。そして教員室に入り、目的の先生がいなかったのですが、二人の先生が少年を咎めたのではないかと思います。その結果、少年の報復は二人の先生に向けられてしまいました。

そこで少年の報復は完成です。もうすることがないので、たばこをふかしてその後の成り行きを待っていたのだと思います。

少年は現実の世界で、模擬体験を実行してしまいました。そこには殺してやろうという意図はありません。じゃまされたから、凶器をふるって、実行し続けただけです。運悪く、模擬体験のように事柄が進んでいったので、大事件になりました。

少年には先生達を殺そうという意図はなかったのです。けれどことの成り行きから、先生に凶器を振るわざるを得なかったのです。その結果大事件になりました。少年には大事件を起こしたという思いは現在のところないと思います。夢遊病者のように、少年の人格とは別の人格が、少年にこのような行動をさせました。所謂解離を生じていたのです。

少年は家庭内でも孤立していて、母親にも激しい怒りを感じているはずです。辛くて辛くてどうにもできなかったのだと思います。辛さから逃れるためには、このような自分に追い込んだ教師に報復をするしかないと、無意識に反応しだしていました。少年の心を癒してくれる人がいない状態です。少年の思いにブレーキをかけてくれる人がいなかったと言うことでしょう。

少年の辛さを癒すのはゲームやビデオなどの、それも悪をくじき正義が勝つと言うような、または邪魔者をうち砕いてゴールを目指す、ゲームに勝つというような物だったと思います。その中の模擬体験が、少年の経験になりきってしまっていたのです。

少年はそのゲームの主人公と区別つかなくなっていました。多くの子どもでは、ゲームの世界から離れたら、ゲームの世界のことを実生活ではしません。遊びの中で行うことがあります。それが、心が辛い子どもでは、ゲームの世界と現実の世界が区別できなくなるのです。ゲームの論理をついつい現実の世界で実行してしまったのです。それは神戸の連続通り魔事件とほぼ同じ心の仕組みです。

現在少年は自分のしたことが理解できないと思います。大変なことをしてしまったと、言われてもそれを自分がしたのだと言うことに納得できないでしょう。形の上ではしたことをわびるかもしれませんが、本心からではありません。本心では自分がその事件をしたのだとは信じられないのです。

少年の心を傷つけた担任の先生は、少年が担任の先生で心が傷ついたことを知りません。先生はいつものように普通に生徒と接していたからです。けれど少年はとても大きな心の傷を負い、それが元で、不登校になり、最も少年を守らなくてはならない親からも責められて、少年が原因だと認識する先生に報復をせざるを得なかったのです。

この種の事件の解決法は、少年と母親との心の交流が再開する事でしょう。神戸の少年Aの場合、形式的には更正させられているようですが、今後はどうなるか全くわかりません。母親と少年Aとの関係がわからないからです。

【2005/02/19 09:33】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

恐怖への耐性

登校拒否、不登校の子どもは、学校を恐怖の条件刺激にしているのですから、学校で恐怖体験をしています。その恐怖体験は教師から、ほかの子供から、そして学校内の事件から、などが考えられます。これらの原因のひとつが作用して恐怖の条件刺激を学習している場合もありますが、これらが相乗して恐怖の条件刺激を学習している場合もあります。

恐怖に対する耐性(心を強くする)も考える必要もありますが、これは大変に難しいです。下手をすると、親としては子供に、恐怖に対する耐性をつけたつもりが、逆に心に傷をつけている場合があります。現在のように、まだ心の傷を知らない大人が多い中で、子供の心に恐怖に対する耐性をつけることは失敗する可能性が高いと考えられます。成功例はほんのわずかだと思います。ただし、成功例は目立ちますから、注目されやすいです。

一般論として、恐怖に対する耐性をつけるのは自然の成り行きが一番よいと思います。親は絶えず子供の心を癒す役割がよいと思います。ただし、特殊な目的を持って子供を育てる場合には、その親なりの恐怖に対する耐性を、親の責任で子供につけさせてもよいわけですが、子供が傷つきやすいことを絶えず頭に入れておく必要があります。特に教師は子供に一生懸命指導するあまり、逆に子供を傷つけている可能性を考えておく必要があります。傷ついた子供に気づかないからです。

原因の除去は大変に難しいです。学校内で子供が恐怖体験をする条件を取り除かなければならないからです。ある子供には恐怖でも、別のある子供には恐怖でないか、時には喜び刺激になっている場合があります。また、いくつかの恐怖体験から恐怖の条件刺激を学ぶ場合には、ひとつの問題を解決したからといって、すべてが解決するわけではありません。また、現在のようにいろいろな感性のばらつきがある子供たちの間で、集団生活をする場合、程度の差はあっても子供は恐怖体験を経験すると考えたほうがよいです。

程度の差はあっても、子供が学校で必ず恐怖体験をするなら、親も子供は学校で必ず傷ついていると考えたほうが、子供を育てるのには好ましいと思います。親はその子供の心の傷を癒す役割と考えたほうがよいようです。あくまでも原則であり、元気でどんどん伸びていく子供にはこのことを考えなくてもよいわけですが、そのような子供でも、状況が変わるといつの間にか心に傷を帯びている場合をしばしば経験します。

そのような意味で現在のいわゆるよい指導者は、成功例も持っているでしょうが、その影に隠されて、傷ついて苦しんでいる子供がいることにも注意してください。
【2005/02/18 07:58】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

ゲーム脳

 ゲーム脳と言う言葉を聞くと、テレビ脳と言う言葉を思い出します。果たしてテレビ脳という言葉があったかどうか、私も自信がないのですが、「テレビばかり見ていると頭がパーになる」と、よく言われたものでした。きっとその言葉を言われた人たちが、今度は自分の子どもたちがテレビゲームに夢中になっている姿を見て、ゲーム脳という言葉を言っているのだと思います。ただ、ゲーム脳という言葉は、そのようなこととは違った意味である人から提唱されているようですが、脳科学的には全く意味がなくて、詳しく検討する必要がないので、言葉の意味そのものには深入りしません。

 テレビゲームに夢中になって、テレビゲームばかりしていると、子どもは運動能力を発展させることができないと言う説を聞いたことがあります。ボタンを押す能力だけが発展すると言うことらしいです。確かに、テレビゲームに夢中になっていると、体を動かすことをしないことがあります。テレビゲームをしていないときに体を動かせば、これらの体を動かす能力は、テレビゲームにむちゅうになっても、夢中にならなくても、子どもにはついてきます。

 問題はテレビゲームに没頭してしまっていると、体を動かす機会がないことでしょう。別の見方をすれば、テレビゲームに夢中になる子どもには、テレビゲームしか心を癒す方法がないという意味だと思います。親や大人の分からない子どもなりの辛さを解消するために、テレビゲームに夢中になっている場合が多いと思います。テレビゲームに夢中になっている子どもに体を動かせといっても、子どもがその気になれないのも現実です。そこで大人がテレビゲームに夢中になっている子どもに、テレビゲームを止めて体を動かすように強制しても、その効果は逆効果になります。

テレビゲームはバーチャルな世界です。バーチャルな世界の経験でも、実際の経験と同じ記憶が脳内に残ります。その意味では、体を動かしてはいないけれど、それなりの経験をしたことと同じ意味合いがあります。テレビと同じで、家にいながら新しい経験をどんどんすることになります。与えられた状況に対する判断の練習になっています。その意味で、バーチャルな世界での経験は実社会での経験に近いものになっています。それは子どもに家の中にいながら、子どもの世界を広げていることになります。
【2005/02/17 08:47】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

接近系、回避系

人間には三つの心があり、その三つの心が独立して機能します。その三つの心は
1.思考の心又は意識の心
2.習慣の心又は知識の心
3.情動の心

この情動の心は接近系と回避系に分かれます。接近系とは刺激を求めようと反応する場合、回避系とはその刺激を回避しようとする場合です。

子どもの場合、何も刺激が無くても、刺激を求めるという接近系が強く働きます。それが子どもの特徴の一つです。子どもが与えられた環境に順応しようとする本能と言って良いと思います。
このように、接近系には発展性があります。

回避系は自分の存在を守るための反応です。回避系の刺激からはまず逃げようとしますし、逃げられないときには攻撃をします。逃げることも攻撃することもできないときには、動けなくなり(一種のすくみ)神経症状や精神症状を出します。
【2005/02/16 09:00】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもは群がる

群れるとは何かです。草食動物が群をなす形か、オオカミが群をなす形か、それとも偶然に集まっただけなのか。

人間の大人の場合、文化的な、理性的な要素が大きいです。都市は便利(それ以外にもあるでしょうが)なために集まった集団であり、軍隊はオオカミの集団に近いでしょう。

農地を家族で耕している場合には、孤立した生活ですが、農作物を売るという点では、孤立はしていないでしょう。

子どもの場合、家族という集団に属します。それは子どもを保育する哺乳類はすべてその形を取っています。

幼稚園や学校は、大人が作った集団に参加させられるのであり、果たして子どもがその集団を選択したかどうかと言うと、問題が多いでしょう。

子どもをよく観察していると、子どもは子どもの集団を求めて、その子どもなりにその中に入っていきます。そのときの子どもと集団との関係は、子どもと集団の中の別の子どもとの、一対一の関係が基本であり、大人のような一対集団というような関係ではありません。

不良グループを例に取りだしていらっしゃいますが、不良グループには上下関係があり、力関係があり、子どもがそのグループを求めたのではなくて、そのグループに取り込まれたと考えられます。子どもの本来の姿ではないと考えられます。

これらを総合すると、人は群れるというのが当たっているようには思われませんし、特に子どもに関しては、子どもは一対一の関係を続けているのであり、決して集団を求めているのではないように私は判断します。
【2005/02/15 08:46】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子ども同士の距離

基本的には子どもは本能として、子どもの集団を求めます。集団が単数なら友達になります。その友達との生活(一緒に遊んだりすること)は互いに刺激を与えあっています。その刺激が接近系でしたら、友達関係が続き、回避系を生じると、子ども同士の距離が遠くなり、必要なら母親の元に戻らなくてはなりません。

>学校における自分の安心できる場所を作ろうとする心理から生まれるものなのでしょうか?
今までの経験から言って、子どもは自分から安全な場所を作ることはできないようですが、少しでも安全な場所を作ろうとはします。つまり、回避系の刺激がないように、その子どもなりにその子どもの経験から、工夫をするという意味です。

>それはそうさせるなんらかのプレッシャーが掛けられたから生じるものであって、それが無ければそういう行動も生じないのでしょうか?
きっとそうだと思います。子どもの自我が確立してきますと、自己を主張します。その自己主張を認めあえる相手が、親友なんでしょうね。けれど、個人が違えばどこかに自己主張の違いがあるのは当然だと思います。その自己主張の違いを表現しあったときには、相手は回避系になります。一時的に距離を取ることになります。ここで大人の心が芽生えている年齢になっていますと、子どもがこの回避系の刺激を何らかの方法で解消できるなら、又距離を近づけることができます。

または、自己主張をし合ったときには認識しなかったけれど、その後(時間の経過で、回避系の刺激が弱まり)相手にその自己主張の違い以上の魅力(接近系)があり、それを認識したときには、また相手との距離を近づけることができます。

小さな子どもでも自己主張でけんかをしても、その後何か楽しいことがあれば関係が自然と元に戻ることはよく見られます。

この問題を考えるには、自己主張、ストレス刺激、意識の心が情動を調節する能力がある、強い接近系の刺激、などが考えるキーポイントではないでしょうか?
【2005/02/14 11:04】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

戦場からの負傷兵

 日本はこの60年間、直接戦争に加わっていません。その意味では平和な国です。けれど子ども達の間では、学校内で、激しい競争があります。学校や多くの大人は、子ども達の成長のため、子どもの将来のためとして、子ども達のために学校を作り、子ども達のために先生方も働いています。けれど多くの学校では、学校内で行われていることは競争です。学校内で行われていることが全て競争ではないですが、競争の部分が必ずあります。その競争の部分では子どもたちは勝ち残るために競争相手を傷つける子どもがいます。その結果心が傷ついてしまう子ども達がいます。

 学校側も、学校自体が勝ち残るために、学校としての成果を出すために、そして先生自体が勝ち残るために、学校側や先生達の都合で子ども達に働きかけます。その働きかけが、子どもたち個々のあり方を無視した形で行われるために、心が傷つく子どもたちがいます。大人や先生たちにとっては、子ども達の将来のために良いように、現在の子どもたちに喜びを与えられるように、と思っているでしょうが、それでもかなりの割合の子どもたちにとっては、学校は戦場になっている部分があります。

 学校という戦場で心が傷ついた子ども達はそれぞれの家庭に帰還します。けれど親達や先生達には、子ども達の心についた傷は見えません。その結果、心が傷ついた子ども達を学校へ送り出そうと、学校へ来させようとします。それは心が傷ついた子ども達には大変に酷なことです。傷ついた心で、どうしてもう一度、学校という戦場で戦うことができるのでしょうか?子ども達は自分たちの心の傷が癒えるまで、家庭でゆっくりと時間を過ごさせてくれと、叫び続けています。親たちや先生達はその子ども達の叫びを無視し続けて、戦場である学校へ行かない子ども達を異常だと判断しています。。

 もちろん学校の中に子ども達にとっての戦場がなければ話は別です。けれど実際には、子ども達の取っての戦場の部分があるのです。それでいて、親たちや先生達は、学校の中に子ども達にとっての戦場はないと思っていますから、学校で心が傷ついた子ども達と親達や先生達との間では、感じ方のずれを生じています。子ども達の感じ方が正しいのに、親たちや先生達は自分たちが正しいとして、力の弱い子ども達が、無理矢理に戦場である学校に行かされて、ますます心の傷を深くするという現実があります。
【2005/02/13 08:42】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

幼児と母親

幼児と母親

幼児は精一杯内的な欲求から、そしてそのときまでに学習した(大人と比べて)非常に少ない記憶(知識)から、反応して行動します。幼児の内的な欲求とは、与えられた環境に順応するための経験を求めようとするものです。自分を守るために、生き延びるために、すでに自我を主張しています。それは決して他の人のためを意味していません。きわめて自己中心的です。妥協がありません。それが幼児として生理的なのです。

 母親はそれを本能的に許せますし、子どもも母親と認識している人に関しては、その子どもの状態によっても異なりますが、妥協して自分の自己中心的な主張を控えることを無理なくすることが可能です。それはその子どもが母親と認識する人にだけできることであり、他の人がその子どもの母親になったつもりで対応しても、子どもはそれを認めてくれません。ただし、母親が母親の機能を果たしていないとき、子どもは他の人を母親として受け入れることはありますが、それでも母親に母親の機能を求め続けます。

 母親が母親の機能を果たしていないときとは、母親が子どもの自己中心的な主張を認めないときです。それも短い時間なら、少ない回数なら、子どもの母親への不信は時間とともに消失していきます。けれど母親が子どもの主張を認めないで、自分の知識から、または周囲の人たちの判断を受け入れて子どもと向かい合ったとき、子どもは母親を信じられなくなり、回避行動(子どもは母親に依存していますから、逃げ出せません。その結果攻撃行動、つまり子どもが暴れるという問題行動や問題行動)を起こしてしまいます。

 それは母親に、子どもが問題児であるとの認識をさせます。「この子どもを今の内にどうにかしなくてはならない」と言う、一般常識に沿った判断をします。もっと子どもを母親の持っている知識のように反応させなければならない、一般常識に沿った行動させなければならないと言う思いを強くして、子どもに働きかけます。それは子どもに子ども自身を守るための自己中心的な自我の主張をすることになります。ますます子どもの回避行動が強くなります。母親と子どもとの関係が悪いと周囲からは判断されますが、子どもは子どもとしての自然な主張をしているのであり、母親も一生懸命母親の役目を果たそうとしているのですが、母親の母親としての機能が働かない環境に母親を置いている周囲の大人の問題であることに気づかないで、子どもや母親が問題だと周囲の大人が責めることになります。

 このような状況になったとき、母親は混乱をしてしまいます。パニック状態になります。子どもに激しい罵声を浴びせたり、暴力を振るったりするようになります(母親の子どもへのドメスティックバイオレンス)。一人で悩み続ける母親は、ますます混乱を強め、母親よりは遙かに弱い子どもへの家庭内暴力を強めていきます。子どもは一時的には母親の暴力を避けるために、母親に従いますが、暴力がなくなると、又自己中心的な自我を主張し続けて、母親以外の人や物に回避行動を強めていきます。周囲の人たちから見たら、問題児として理解されることになります。

 助け船を求める母親がいます。助け船を出す人も一般常識から母親への対応をすると、子どもの問題の解決にはなりません。直接子どもに対応する場合もありますが、助け船を出す人と向かい合っている子どもは、良い子を演じてしまいます。助け船を出す人がいなくなると、又母親へ「自分を理解してくれ」との訴えである、自己中心的な自我の主張が続きます。子どもの問題をどうにかしようということばかりを注目して、子どもがなにを求めているのか全く分からない状態が続きます。

 助け船を出す人が直接、子どもの自己中心的な自我の主張を否定したような場合、子どもはその助け船を出す人から逃げ出すか、その助け船を出す人やその人の関係する物を攻撃します。それは多くの場合、周囲から問題児として特別扱いされやすくなります。けれど助け船を出す人の中には、子どもの自己中心的な自我の主張に気づいている人がいます。そのような人に子どもは癒され、母親も子どものあるがままを認められる(自己中心的な自我の訴えを当然だと考える)ようになると、問題の解決が見えてきます。母親と子供との間の関係が悪いときには、子どもの辛い心を癒す対応が必要です。ありのままの子どもを受け入れられない母親の心を安心させて、母親の母性が働く状態にしてあげることが大切です。
【2005/02/12 19:31】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

幼稚園

 家では母親ととても良い関係なのに、幼稚園に行くと母親の言うことを聞かない子どもがいます。母親から見たら、まさに母親を困らせるためにわざと母親の言うことを聞かないように振る舞う子どもです。そのとき、その子どもは、家が良くて幼稚園が嫌だと言ってるのです。その子どもが幼稚園でひと騒ぎをするのは、幼稚園にいたくなくて、母親と家にいたいということです。

 それでもその子どもを無視して、母親が幼稚園からいなくなると、その子どもはまもなく落ち着きます。他の子どもと仲良く生活ができます。それはその幼稚園の生活がその子どもに受け入れられたと言うことではなくて、精一杯その子どもが良い子を演じている姿なのです。母親としては、良い先生がいるし、良い設備も整っているし、母親のいないところでは他の子どもと仲良くできるから、その子どもにとっても良いところであると考えるのはやむを得ません。

幼稚園からは「幼稚園に来させてくれれば大丈夫だから」と言われ続けても、一向に子どもの問題行動が治まらないし、周囲の人たちからは、「母親の子育てが悪かったのではないか」、「社会性を持たせる子育てができていなかったのではないか」と指摘されて、母親が育児ノイローゼになってしまう場合があります。けれど、本当は母親とその子どもとの関係はとても良いし、子育ては間違っていなかったのです。その子どもが幼稚園に行きたくない、まだ幼稚園に興味がないという意味であり、現在まだその子どもは幼稚園に行かす必要がないと言う意味です。もう少し成長すれば、その子どもは幼稚園に行かれるようになると言う意味です。

 子どもが幼稚園に行くかどうかは子どもの判断です。子どもが幼稚園を嫌がると言うことは、子どもに問題があるのではなくて、嫌がる幼稚園に子どもを行かさなければならないと考える周囲の大人に問題があります。年齢がきたら、幼稚園に行くべきだと考える周囲の大人に問題があります。幼稚園で良い子を演じている子どもの姿を見て、子どもが幼稚園を喜んでいると判断する幼稚園の先生方に問題があります。まだ、幼稚園を受け入れる状態でない子どもを、無理に幼稚園に行かせることで、周囲の大人は集団に慣れさせるためと評価をしますが、子どもの立場から言うなら、それ以後集団を嫌がるようにし向けられていると、反応するようになります。幼稚園などの集団に対して知らない内に、心の傷を帯びるようになります。
【2005/02/11 09:21】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

障害

障害(壁、乗り越えにくい新しいことに挑戦する)自体は嫌悪刺激(嫌なこと)ではありません。障害を乗り越えようとしなければ無関刺激です。この障害を乗り越えようとするときを考えてみます。乗り越えるためには、自分の能力を伸ばさなければなりません。それには努力を要します。そして、障害を乗り越えた喜びとは、障害を乗り切る知識や操作を獲得したという喜びも含まれます。今までとは違う、より高い能力の自分(成長)を喜びます。

子どもは自発的なエネルギーがあり、ただその障害を乗り越えたいという内的な欲求から乗り越えようとします。それは子どもの自然な姿であり、その子どもなりに、障害に挑戦して乗り越えようとします。乗り越えられなくても、子どもの心は傷つくことはありません。乗り越えられないことに理由を付けるのは大人であり、子どもではただ単に乗り越えられなかったという事実だけです。そして、乗り越えられたときにはとても大きな喜びを得ることができます。次に新たな障害を求めてそれを乗り越えようとします。そして、その障害を乗り越えようと、障害に立ち向かうエネルギーが根性だと思います。

障害の向こうに、または障害を越えることで、ご褒美が待っている場合も、子どもは障害を乗り越える挑戦をし続けます。乗り越えられないときには、それなりに納得できますし、乗り越えられたときには大きな喜びを感じます。けれどそれが次の障害を求めてそれを乗り切ろうというエネルギーにはなりません。次の障害にぶつかったときには、障害の向こうに、または障害を乗り越えることで、ご褒美がないと、次の障害に立ち向かおうとしなくなります。ご褒美に依存を生じるという意味です。この場合の根性とは、そのご褒美を得ようとするエネルギーでしょう。元来の根性の意味と異なると思います。

間違いやすいことは挑戦することでご褒美をもらえると子どもが理解していて障害に挑戦していて、その結果乗り越えられないでご褒美をもらえなかった場合です。また、障害の向こうにその子どもにとって必須(子どもによって異なる)なものがあり、それが障害を乗り越えられないことでその必須のご褒美を子どもが得られない場合です。この場合には、子どもは恐怖の条件反射を学習します。心が傷つくという意味です。

子どもに恐怖を与えて障害を乗り越えさせようとする場合です。スポーツの指導者がしばしば用いる手段です。この場合、子どもが障害を乗り越えられないと、子どもの心が傷つきます。乗り越えられたときには、障害を乗り越えるだけの技術を習得(操作記憶が記憶された)と恐怖から回避できたということ(所謂安心感)が得られています。指導者としてはそれでよいのかもしれませんが、乗り越えたことは喜びのように指導者としては思われるかもしれませんが、子どもとしては恐怖が消失した状態と言うだけ(子どもがうれしいと言ったとしても、それは乗り越える技能を得られた喜びばかりだけではなくて、恐怖が消失した喜びです。この喜びで与えられた恐怖を帳消しにできる可能性がある)のことで、新たな障害を乗り切ろうとする発展性はありません。この場合の根性とは、与えた恐怖刺激からの回避行動として障害を乗り越えようとし続けたことであり、回避行動としてスポーツの指導者が気づかないところで、不適応行動を起こしている可能性が高いです。

実際の子どもについては、これらの要素が複雑に絡み合っていて、単純でないことも事実です。
【2005/02/10 07:54】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの場合の嫌悪刺激の克服

子どもはエネルギーの固まりです。嫌悪刺激(子どもにとって嫌なこと)を与えない限り、何かを求めて動き回ります。この動き回る理由は、与えられた環境に順応するために、順応するための経験をするために動き回ります。決して環境を克服するためでは、子どもにとって必要がないかぎり、障害を乗り越えるためではありません。子どもは嫌悪刺激があると、必要がない障害があると、母親の元でそれらが解決するのを待つしか方法がないのです。

子どもが嫌悪刺激から逃げ出さないためには、嫌悪刺激以上の接近系の刺激が必要です。この場合には、子どもは嫌悪刺激を克服しようとしますし、嫌悪刺激を克服できなくても、心が傷つくことはありません。

子どもが嫌悪刺激から逃げ出さないために、その嫌悪刺激以上の嫌悪刺激を与える場合があります。その場合には、克服できないととても大きな心の傷を受けることになります。克服したとしても新たに加えられた嫌悪刺激より、子どもの心はとても不安定になっています。

嫌悪刺激に対して、根性という概念が当てはまる場合とは、子どもにとって回避系の刺激である嫌悪刺激以上の大きな接近系が存在していて、大人がそれに気づいていない状態だと思います。または大人が気づかない内に子どもに大きな接近系の刺激を与えていて、その刺激のために子どもが嫌悪刺激から逃げだそうとしない姿だと思います。

障害そのものは嫌悪刺激ではありません。子どもの能力以上のものがあると、子どもはそれを乗り越えられられません。けれど子どもは能力を伸ばして、その障害を乗り越える必要があります。これがスポーツでしばしば言われている根性の話に相当します。
【2005/02/09 08:31】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの側にいる

 辛い状態にある子どもについて、親がそばにいて子どもを癒すことに専念することを主張する人がいます。このことに関する答えは、登校拒否、不登校、引きこもりの子どもを育てた経験のある方なら分かると思います。親が、特に母親が子どもの「登校拒否、不登校、引きこもりは当然のこと、自分を守るために大切なこと」と理解して、子どものあり方を尊重している親なら、子どもを受け入れてくれている親なら、少なくとも、子どもを責めない親なら、子どもにとって親はそばにいて欲しいものです。けれど子どものそばに親が少しだけいてくれたら、子どもが納得するだけ子どものそばにいてくれたなら、子どもはそれで満足して、子どもの方から親から離れて何かをし出します。もちろん子どもの年齢や、子どもの辛さの程度によっても、子供のそばにいる親の時間は異なります。辛い状態の子どもでは、母親と一緒に寝たり、入浴したり、肩や腰をもんでもらったりする子どももいます。

 子どもを受け入れられない親がすぐそばにいることは、子どもにとってとても辛いものです。そばにいて欲しくないものです(親の苦悩に満ちた目は、子どもの心をぐさりと突き刺すようです)。そばに親がいると、子どもはストレス刺激を受け続けるものですから、「うざったい」と表現して、親を攻撃したり、自分の部屋の中に引きこもります。それは子どもに問題があるのではなくて、親が子供を受け入れていないという問題点が、親の方にあります。けれど、その問題点を親が気づいていないだけです。

 子どもの立場から言うなら、親だけは子供の辛さを理解して欲しいです。親が理解してくれたら、後はその子供がその子供なりに解決したいのです。その事実も信じて欲しいのです。けれど、子どもを理解できない親はそばにいない方がよいです。親は子供にって一番大切ですから、理解されないことは余計辛いのです。だたし親は必ず存在しなければなりません。存在して子どもの生命を支えなければなりません。

 子どもを理解できる親、または、子どもを理解しようとする親(理解できないのはやむを得ない)で少なくとも子どもを非難しない親については、子どもが必要とするときには子どものそばに親がいて欲しいものです。子どもが納得したら、親は子どもから離れてその親なりに輝いて欲しいものです。ストレス刺激がなければ、子どもは自分のエネルギーを発散しなければならないからです。そのエネルギーを使って、その子供なりに自分らしさを見つけたいのです。親相手にはその子供のエネルギーを発散できないし、自分らしさも見つけられないからです。子どもの心を理解できるようになった親なら、親が子供のそばに必ずしもいなくて良いことを、子どもとの関わりの中から学ぶでしょう。
【2005/02/08 06:36】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの本心

 子どもの本心は潜在意識にある情動です。子どもは情動に沿って行動しているし、その情動を子ども自身でも変えることができないからです。また、情動は命に直結していて、命を守るための心と考えられるからです。その情動を子どもは知ることができません。もちろんその子ども以外の人も知ることができません。

 年齢によっても大きな差がありますが、子どもの知識は社会の中や、自然界の中で独力で生きるためには不十分です。また、判断力に至っては、ほとんどないと言って良いと思います。それに反して、子どもの情動は、危険から子どもを守るために、自分の生命を発展させるために、大人並の反応の仕方を持っています。時には大人以上の能力を発揮する場合もあります。

 子どもが発する言葉が子どもの本心を表現している場合もありますが、原則として言葉は子どもの持っている知識です。知識は子どもの本心と異なっている場合があります。登校拒否、不登校、引きこもりや不適応行動を示す子どもでは、多くの場合、言葉は本心と異なっています。この事実は、これらの辛い状態の子どもを育てた人にしか分かりにくいです。

 登校拒否、不登校、引きこもり、不適応行動を起こして辛い状態の子どもを育てていて、親は子供の言葉とその行動の違いに悩み続けます。子どもの本心はどこにあるのか悩み続けます。いろいろな大人としての理由を付けて、理解しようとします。それはあくまでも大人の心からの解釈であり、子どもの本心を知るのは脳科学しかありません。子どもの本当の心は動物と共通です。動物の心を研究することで、かなり正確に情動を知ることができます。
【2005/02/07 08:35】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

しつけ

 人間の特徴は自分の意志で行動することです。自我を主張するとか自立とか言えると思います。自我を持った人に育てるためには、子どもに自分で判断する練習をさせてあげることでしょう。子どもが自我を出したときに、親のあり方と異なる場合が多いです。それは年齢による心の構造の違いや、生きている時代の差によります。

 特に近年は時代の変化が大きいです。親の判断基準は子どもには当てはまらないことが多いです。そのために、子どもが自我を出す時には、親に逆らうことになってしまう場合も多いです。親はそれを認めるべきなのでしょうが、不安から親はそれを認められないのが現実です。その結果子どもの反抗期と感じるようになります。

 しつけとは、子どもの行動を大人の希望する形にすることです。それは操作記憶です。陳述記憶は文字で記憶させることは可能ですが、操作記憶は実際に行動を繰り返すことで成立します。子どもにある行動を習慣づけてさせる方法には、代償としてご褒美を与えるか、罰を与えるかの方法があります。

 ご褒美を与えてある行動を繰り返させて操作記憶を成立させると、次の別のしつけの時にも何かご褒美を与えないと、次のしつけを子どもは受け入れません。ご褒美を与えるときには、必要最低限にするのがよいです。それでもご褒美がなくなったときには、それなりの影響を子どもに与えます。

 恐怖を与えてしつける場合には、割と短時間に習慣化させることができます。人間社会の中では、結果を急ぐあまり、ついつい恐怖で行動の習慣化をさせようとする傾向があります。その結果恐怖の条件刺激を学習します。所謂心に傷を帯びてしまいます。そればかりでなく、恐怖がないところでは、習慣化した行動が消失してしまう傾向があります。

 親が子供を厳しくしつけるといった場合、親が子供に恐怖をあたえて、子どもの行動を習慣化させたという意味でしょう。その結果子どもは程度の差はあっても、心に傷を帯びているはずです。ただし、親が恐怖を持って子どもの行動を習慣化した場合には、親(特に母親は)は子供に大きな褒美を与えて、できた心の傷を帳消しにすることができます。そのために、親が少しぐらいの恐怖を持って子どもの行動を習慣化させても、その後親の優しい愛情であるご褒美を十分に与えれば、子どもの心に大きな問題を生じることは少ないでしょう。

 子どもは真似が上手です。大人のしていることを真似します。大人が大人の希望する行動をしているなら、子どもは無条件にそれを真似します。子どもは親の背を見て育つと言いますが、ある意味では正しいです。けれど、子どもが真似をするのは親ばかりではありません。周囲の人、マスコミや小説、漫画、テレビなどの真似もします。親ばかりではどうにもなりません。それらから情報を受けたとき、単純に真似をしないで、その子どもなりに取捨選択のできる子どもにするためにも、普段から子どもの判断力を育てておく必要があります。

【2005/02/06 07:05】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

登校拒否の子どもと親との距離

 これは登校拒否、不登校、引きこもりの子どもの対応をした経験のある方なら、分かると思います。

 親が、特に母親が子どもの登校拒否、不登校、引きこもりを当然のこと、自分を守るために大切なことをしているというように、子どもを受け入れてくれている親なら、少なくとも、子どもを責めない親なら、子どもは親がそばにいて欲しいものです。

 けれど子どものそばに親が少しだけいてくれたら、子どもはそれで満足して、子どもの方から親から離れて何かをし出します。もちろん子どもの年齢や、子どもの辛さの程度によっても、子供のそばにいる親の時間は異なります。辛い状態の子どもでは、かなり年長の子どもになっても、母親と一緒に寝たり、入浴したり、肩や腰をもんでもらったりする子どももいます。
 子どもを受け入れられない親は、子どもにとってとても辛いものです。そばにいて欲しくないものです(親の苦悩に満ちた目は、子どもの心をぐさりと突き刺すようです)。そばに親がいると、子どもはストレス刺激を受け続けるものですから、「うざったい」と表現して、親を攻撃したり、自分の部屋の中に引きこもります。

 登校拒否、不登校、引きこもりで辛い状態の子どもの立場から言うなら、子どもを理解できない親は子どものそばにいない方がよいです。子どもに姿を見せない方が良いです。だたし必ず存在しなければなりません。存在して子どもの生命を支えなければなりません。

 子どもを理解できる親、子どもを理解しようとする親で、少なくとも子どもを非難しない親については、子どもが必要とするときには子どものそばに親がいて欲しいものです。子どもが納得したら、親は子どもから離れてその親なりに輝いて欲しいものです。ストレス刺激がなければ、子どもは自分のエネルギーを発散しなければならないからです。親相手にはその子供のエネルギーを発散できないからです。子どもの心を理解できるようになった親なら、親が子供のそばに必ずしもいなくて良いことを、子どもとの関わりの中から学ぶでしょう。
【2005/02/05 09:38】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

サイン

所謂心の専門家という人が「サイン」という言葉を使います。それでいて、サインとは何かを知りません。何か大きな事件があったら、その経過を論評してこれがサインだったと指摘します。そしてサインを見落とすなと、サインを見落としたことが問題であると指摘します。では、その渦中にある人、そしてその心の専門家も、渦中の人のサインを見つけられるかというと、それはできません。それは所謂心の専門家という人たちの言うサインとは、その結果からさかのぼることでサインと分かるようなものだからです。渦中でのサインとは何かを知らないからです。

 ここでいうサインとは、子どもが問題行動を起こす前に、大きな問題行動を予告する可能性を示す何かです。そこで子どもが大きな問題行動を起こす前にどのようなことがあるのかを考えてみます。子どもたちを観察する限り、地震のように何の前触れもなく、子どもたちは突然大きな問題行動を起こしているのではありません。子どもたちは辛さから、はじめはあまり目立たないような問題行動を起こしたり、神経症状や精神症状を出しています。

 それはまるで、親の子供への信頼度を、あたかも子どもがテストしているかのようにみえます。そして、その子どもの目立たないような問題行動が大人たちから受け入れられないばかりか、否定されると、子どもたちはもっと強い問題行動を起こしています。つまり、サインとかシグナルとか言うものは、子どもが「辛いよ、助けて」と行動や症状で示している、子供の回避系の反応(自己主張)です。

 子どもに限らず、人間の回避系の反応は、所謂サインです。自分を守りたいという自己主張、シグナルです。すべての人がその人なりに、嫌なことがあると「嫌だよ」というサインを出して周囲に自己の生存権を主張をしながら、嫌なことを解決します。周囲の人もその嫌だよと言うサインに反応して、対応することになります。ただし、周囲の人は、その人の出すすべてのサインに気づく必要はありません。問題が解決すれば、そのサインは消失するからです。サインが消失したということは、その人の問題が解決したということだからです。

 サインとして重要なのは、問題解決できない回避系の反応です。その場合には人は、問題行動を起こしたり、神経症状や精神症状を出します。大人では問題行動は自分の意志でそれを調節する必要があります。子どもはそれができません。ですから、子どもついて、子どもの問題行動が子どもの責任だと考えたなら、サインを見落とすことになります。また人間では神経症状や精神症状を、それを病気だと判断したときにはサインを見落とすことになります。常識で子どもを見る人は、子供のシグナルに応えられないというよりまず気付かない場合が多いのです。
【2005/02/04 07:24】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

どこまでテストをするのか

 登校拒否、不登校、引きこもりで辛い状態の子どもについて、たとえば茶髪にするとか、ピアスをつけるとか、たばこを吸うとかの、子どもが親の嫌がる行動をする(親をテストする)ことについてです。この場合、子どもが自己主張をしていると考えて良いです。この問題行動を起こすと言うことで自己主張する場合の自己主張は、子供が自分を守るための自己主張です。情動の回避系の反応です。子供に嫌悪刺激が加わらなければ、回避系の反応であるこの問題行動を起こすという自己主張をしません。言葉を換えれば、登校拒否、不登校、引きこもりの子供(一般論でないことに注意してください)が嫌な思いをしなければ子供はこのような自己主張をしないという意味です。子供を安全な場所に隔離してあげれば、子供は親の嫌がる自己主張をしないという意味です。

 その子どもの親を苦しめるような自己主張に対して、親が反応としてなにもしなければ、親が反応してくるまで、子どもの親の嫌がる行動はエスカレート(親ではどうにもならなくなってしまうころまで)してくる可能性があると、心配している親を見かけます。ところが上記のように、子供は安全な場所にいる限り親をテストしません。子供が親をテストする限り、子供はそのとき辛い状態にいる、安全な場所にいないことを意味しています。子供のテストがエスカレートするとは、親の出した答えが間違っているという意味です。親が子供にストレス刺激を与えているという意味です。親が答えを変える必要があります。この際に、子供がおかしいと親が考えたなら、それは子どもの否定になり、子どもの問題の解決が大変に難しくなります。

 子供がテストする限り、子供は辛いのですから、子どものテストの正解は、子供に加わっている辛い刺激を取り除いてあげるのが正解なのです。けれど多くの場合、子供が辛くなっているストレス刺激が何か、親には分かりません(子どもも分かっていません)。分かったと親が判断しても、間違って判断していることが多いのです。ですから、子供に加わっているストレス刺激を取り除こうとする対応は多くの場合失敗します。間違った答えを子どもに与えた結果、子供のテストがエスカレートする原因になります。

 子どもを苦しめているストレス刺激が何か分からない子どもにとって、テストの答えとして求めていることは親からの信頼です。親にとって子供の辛くなる原因が分からないなら、その原因を取り除かなくても良いから、「子供が辛いこと」を認めて欲しいことです。決して子どもが行った行動や、言った言葉に沿って答えを出してくれと言っているのではないことに注意してください。子どもの行った行動、子どもの言った言葉に惑わされないで、子どもに「信頼しているよ」というMSGを親からもらいたいのです。子供にって親、特に母親からの信頼感は最高の接近系です。子供に加わっているストレス刺激は回避系ですから、その逆向きです。その嫌悪刺激を中和してくれます。嫌悪刺激の作用を弱めてくれるから、子供はテストを止めることになります。それはテストに合格したことになります。

 子どもが親を苦しめるような行動(自己主張)をして親をテストしてるとき、親は具体的にどうしたらよいかの問題を考えてみます。前上述のように、親は子供が辛いことを認めれば良いわけですから、それをどのように親が表現するかの問題になります。ある時には子どものテストに親が反応した方がよい場合もあります。ある時には反応しない方が良い場合もあります。子供の自己主張の内容や状況などによっても異なります。一概に言えませんが、親が迷ってしまうときには、反応を起こさない方が経験的に無難なようです。

 たとえば登校拒否、不登校、引きこもりの子供(一般論でない)が茶髪にしたとします。これらの辛い状態の子供には余裕がありませんから、興味本位から問題行動を起こすというようなことはできません。ストレス刺激が加わっているから、そのストレス刺激の回避行動として、その子供なりの記憶から茶髪にしたのです。その茶髪が親にとって問題行動でなければ、親は子供の茶髪を気にとめません。子どもにとって親へのテストになりません。子供はそのうちに茶髪のことは忘れてしなくなり、他の問題行動をするようになります。親が子供の茶髪を問題だと感じたときには子供は茶髪を続けます。茶髪を続ける労力に見合う親を苦しめるという強い刺激がなければ、子供にとって目の前の自分の辛さを変化させる、和らげ他の辛さに転化する、作用がないからです。

 子供は自分の辛さを和らげるために、親に親の辛くなるようなものを親にぶつけるのです。それは、哺乳類が嫌悪刺激に遭遇すると、まず逃げ出し、逃げられないときには攻撃するという、情動反応があります。その逃げられないときには攻撃するというのに相当していると思います。ただし、攻撃する対象が、ストレス刺激発生源とは違うものになっています。
【2005/02/03 08:00】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの希望や目標について

 子供のころから未来に希望を持ち、具体的な目標があると、それを実現するにはどうすればいいかが分かりやすく、突き進む力が強く生まれるという議論があります。そのためには、子どもの内から希望や目標を持つと良いと主張する人たちがいます。

 たとえば野球のイチローが、幼いときから一流のプロの選手を目指して、野球に明け暮れていた話は、目標に向かって努力する子どもの話として、サクセスストーリーとして、一般の人にはわかりやすいでしょう。けれどそれは大人の勝手な解釈です。もしイチローが自分の言葉でそういったとしても、それは大人の心になったイチローの解釈であり、子供時代は違っていたと思います。

 家族やその周りの環境とその時の本人の興味による行動?(ボールを打ったり、投げたり、チームメイトとやる事が楽しかったり)とがうまく絡み合って出来た結果というのが正解です。その意味ではとてもラッキーな人なのです。ただし、それに加えてもっとラッキーだったのは、それを開花させる野球にあった運動能力を持っていたことです。ですから、イチローをまねしても、イチローと同じような成功を収められるのは一人か二人なのです。

 大輔という名前の男の子に関しても、同じです。
【2005/02/02 08:56】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの登校する心

2005/1/30号のFonte(不登校新聞に採用されたものです))

子どもが学校に行くかどうかという行動を、子どもの環境との力関係から考えてみます。
1.子どもが学校を求めるための自然なエネルギー(学校に行きたい、友達と遊びたい)。その逆が、子どもの心の傷がうずくために生じる学校への「回避力」です。
2.子どもを学校に行くための、親兄弟、教師などからの「押す力」
3.学校が子どもへの吸引力(心の傷を癒す作用)、または排斥力(心の傷を深める作用)となる、学校側の「受け入れ態勢」があります。

 普通の元気な子どもは、エネルギーがとても大きくて、「押す力」がなくても、少々「受け入れ態勢」が悪くても、少しぐらい「回避力」があっても、学校に行ってしまいます。学校生活を楽しむことができます。

 学校で子どもの心が傷つくと、だんだん「回避力」が大くなっていきます。子どもは苦しみながら学校に行き続けます。それでも学校側の受け入れ態勢が良くて、学校が子どもへの吸引力になっていれば、苦しみながらも学校に行ってしまいます。ところが、学校側の受け入れ態勢が悪くて、子どもへの排斥力となっている場合には、子どもの心の傷をより広げ、「回避力」を強くしていきます。この「回避力」は主として家庭で癒すことができますが、学校で子どもが傷つく時間に比べて、遙かに長い時間を要します。

 学校で子どもの心がもっと傷つくと、「回避力」が「エネルギー」を上回って、子どもは学校へ行きづらくなります。すると、「押す力」が作用しだして、子どもはとても辛い状態で学校に行き続けます。当然、「押す力」が弱ければ子どもは心の傷が浅い状態で、不登校の状態になります。次に、もっと子どもの心の傷が深まり、「回避力」が「エネルギー」や「押す力」を上回ったときには、子どもは不登校状態になります。

 不登校状態の子どもが学校に戻ろうとするときも、これらの力関係が働きます。すなわち、不登校状態の経過の中で子どものエネルギーが蓄積されてくると、弱まってきた「回避力」より「エネルギー」と「押す力」が上回ってきます。すると、子どもは学校に戻ります。そして学校に戻ったとき、「受け入れ態勢」が吸引力となれば、子どもは苦しみながら学校に行き続け、卒業し、社会へ出ていくことが可能です。また、「受け入れ態勢」が排斥力として働いたときには、子どもは「押す力」に押し潰されて、また辛い不登校状態に戻ります。せっかく高めたエネルギーを使い果たしてしまいます。「押す力」が子どもを学校に戻す重要な要因の一つですから、子どもの「エネルギー」が高まったとき「押す力」が弱かったなら、子どもは学校に戻らないで、その子どもなりに直に社会へ出ていってしまいます。
【2005/02/01 09:47】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

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