登校拒否の部屋
登校拒否、不登校、引きこもり、青少年問題を子どもの立場から考えます。 参考 登校拒否研究室 インターネット小児心療内科医院

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身体的にハンディキャップのある人の脳(3)

 ハンディキャップのある子どもへの細かい配慮と献身的な支えとは、子どもによって皆違います。それができるのは親だけ、多分母親だけでしょう。母親でさえも必ずできるとは限りません(だから非難されるべきという意味ではありません)。母性が働かない状況にある母親には、ハンディキャップがあってもなくても、子どもの辛さを理解することが難しいからです。そして母性の働かない他人では、決してできないことです。まして、仕事としてハンディキャップのある子どもに対応するときには、ハンディキャップのある子どもの心が無視されて、仕事として働く人の立場からの対応が先行する(給料を貰うことが第一ですから、仕事を形にして管理者に認めてもらう必要があります)傾向が、より強くなることはやむを得ません。

 ただ単に生きていくだけでもハンディキャップから辛い立場にある子ども、そのハンディキャップを克服するために、より辛い学習を続けるには、子ども自身のハンディキャップを克服しようとする意欲が必要です。意欲がなければ学習を止めてしまうか、辛さから心を傷つけて、回避行動をとってしまいます。ハンディキャップのある子どもはハンディキャップのない子ども以上に回避行動をとりやすい傾向が強いのは、ただでさえ辛い状態にあるのですから、やむを得ないことでしょう。ただ、この回避行動をとりやすい傾向を生じさせているのは、ハンディキャップのある子どもの周囲の人たちであり、ハンディキャップのある子どもの特性ではないことを、心にとめておく必要があります。

 その学習しようとする意欲(エネルギー)は(子どもには本能的にその傾向が強く)、子どもの中から自然と湧いてくるものであり、ハンディキャップのある子どもについては、他人が与えられるものではないと言って良いと思います(ハンディキャップの無い子どもでも、他人から与えられるものではないのですが、うまく子どもの意欲の出る対応に合致したことを与えることができる場合もあります)。そして子どもは環境に順応するために、本能的にハンディキャップをほかの能力で克服しようと努力します。その結果、ハンディキャップがあるために、使われていなかった領域の脳神経細胞が新たなシナプス結合を作っていって(そのためには強いインパクトか、日常生活で経験する以上の繰り返しの学習が必要。それがとても辛い作業)、その努力に見合った能力を持てるようになってきます。
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【2005/03/31 10:52】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

身体的にハンディキャップのある人の脳(2)

 身体的なハンディキャップのある子どもの、そのハンディキャップのために使われない脳神経細胞は消失するのではないようです。脳以外の筋肉や骨などは、使われないと廃用萎縮という現象を起こしてその細胞数を減らし、体積を減らしていきます。けれど子どもの脳にはそれはないようです。脳神経細胞が機能していてもしていなくても、一部の脳神経細胞は生理的に死滅していくようですが、残っている脳神経細胞は使われるのをじっと待っているようです。

 最近、脳神経細胞の新生を証明する証拠も見つかってきています。 脳神経細胞の意味はその数ばかりでなく、その脳神経細胞がどのようなシナプス結合をしているかという事実、つまりどのように情報を蓄えて、どのように情報を処理しているかによります。多くの情報を蓄えて、いろいろな処理をする能力は、脳神経細胞のシナプス結合の数に依存しますから、脳神経細胞が多い方がシナプス結合の量を多くする可能性を秘めています。

 いかに多くの情報を蓄えて、いかにすぐれた情報を処理するのか、それはシナプス結合を増やす作業、学習にかかっています。子どもにその学習をさせるための仕組みが学校教育です。ただ、ハンディキャップのある子どもへの教育の仕組みは現在のところ十分にはできていないか機能していません。

 ハンディキャップのある子どもには、ハンディキャップのある分、残っている機能をより発展させなければなりません。そのためには、ハンディキャップのない子ども以上に学習の機会が必要です。ハンディキャップのある子どもにはハンディキャップのない子ども以上に、多くて辛い学習をしなくてはなりません。そしてハンディキャップのない子ども以上に学習し、努力しても、ハンディキャップがあることには変わりないのですから。

 そのように学習し、努力を続けることにより、ハンディキャップがあるために機能をしていなかった脳神経細胞が動員されて、シナプス結合をハンディキャップのない子ども以上に形成して、ハンディキャップのない子ども以上の能力を獲得できるようになります。そのようなハンディキャップのある子どもを支えるには、その子どもに即して細かい配慮のできる、そして献身的な支えができる親でなければなりません。他人ではそこまでの献身的な支えができないからです。

【2005/03/30 09:44】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

体にハンディキャップのある人の脳(1)

 幼いときから身体的なハンディキャップのある人の脳は、その失った機能の領域の脳が、ほかの機能を行う脳に置き換わっているという事実があります。 失った機能を代償する能力を担当する脳の領域が広くなり、その必要なくなった脳の部分がその代償する能力を含めて、ほかの機能の脳に置き換わっています。その失った能力を代償する能力が優れていればいるほど、そのような脳の変化が広く起こっています。

 それは何を意味するかというと、動物としての機能は失わない方がよいですが、失った機能をほかの機能が最大限代償しようとする能力がほ乳類にはあると言うことです。そのとき重要なのは、その失った機能を代償しようとする学習を繰り返す意欲(それをエネルギーという場合がある)です。この学習の結果、失った機能がほかの機能で代償されますし、それは脳にも反映しています。この学習しようとする意欲は子どもに強くて、大人には弱いです。老人になるとほとんど無くなってしまいます。

子どもは与えられた環境に順応しようとする本能があります。それは自然淘汰の中で確立されてきています。ハンディキャップのある子どもも与えられた環境に順応しようとします。その際にハンディキャップが与えられた環境に順応するのを阻害しますから、子どもはハンディキャップをほかの能力で必死に克服しようとします。それは子どもにとってとても辛い作業です。それでも子どもは母親と認識する人に支えられていると、見事にやってのけます。それは子どもが本能から必要と感じて行ったことであり、親や周囲の人からさせられたことではないのです。勿論教育の影響もあるでしょうが、教育からそれらの能力を得たのではなくて、能力を得るために子どもが教育を上手に利用したのです。

続く 
【2005/03/29 11:02】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

昨夜たまたまテレビを見ていたら

昨夜、たまたまテレビを見ていたら、東大助教授でバリアフリーを研究している人が紹介されていました。目と耳が聞こえない人でした。明らかにハンディキャップのある人が、そのハンディキャップをほかの方法で克服して、かつそのハンディキャップを利用して、社会で活躍されています。今までどのような努力をなさって今の様になられたのか、それは分かりませんが、文明の利器を実に巧みに利用して、また自分なりの工夫をして、ハンディキャップを補っていました。

 それでもハンディキャップはハンディキャップ、研究室や家庭を出ると、どうしても助けてくれる人が必要です。それらの人に支えられて、普通の人以上の研究実績を上げて、世界的にも活躍しています。その意味では、ハンディキャップを克服する能力を備えていたこと、ハンディキャップを克服するのに必要な道具があったこと、ハンディキャップのある人でも受け入れる社会であったこと、そして献身的にハンディキャップのある人を支える人がいるという運の良さがありました。

 すべてのハンディキャップのある人が、この人のようにできるかというと、そうではありません。この人をここまでやってこられたのには、幼いときからの血のにじむような努力が必要であり、その努力を実のあるものにさせた周囲の人の支えがあったはずです。それはどのようなものであったの分かりません。とても興味があるところです。ただ単に、ハンディキャップがあるからとして、保護されていたなら、きっとこの人のような工夫や努力はできなかったと思います。保護されていなくて辛かったけど、その辛さを解消してくれる親か誰かがいて、その結果その辛さを何かの方法で解消しようとする努力ができたのだと思います。
【2005/03/28 15:07】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

ハンディキャップのある子どもを守る

 子どもは大人によって守られる必要があります。ハンディキャップのある子どもは、ハンディキャップのない子ども以上に、大人によって守られる必要があります。ハンディキャップのない子ども以上に、大人によって守られる必要があるから、ハンディキャップのある子どもなのです。子どもにハンディキャップがあるかどうかは、その子どもを見つめる大人によってなされています。その子どもに形態的な、又は機能的な問題点が見つかり、ハンディキャップがあると判断されて、その大人から対応を受けています。ハンディキャップの程度は子どもによっていろいろですから、その子どもへの対応はその子どもに応じてなされなければなりません。一概にこうでなければならないというものではないと思います。

 子どもは本能的に与えられた環境に順応しようとして、一生懸命生きています。子どもは自分にハンディキャップのあると意識するのは、何か問題点にぶつかったときからです。きっと何かの問題点にぶつからなかったなら、他の人とは違うと感じることはあっても、ハンディキャップだとは感じないと思います。つまり、ハンディキャップのある子どもについて、その子どもの環境がその子どもに辛さを、生きにくさを与えることで、その子どもにハンディキャップを意識せざるを得なくしています。具体的なハンディキャップの内容は、親や周囲の人が知識としてその子どもに教えているようです。ハンディキャップのある子どもは、生きにくさを感じることにより、その原因を知識として具体的なハンディキャップを意識するようになります。

 ハンディキャップのある子どもは、ハンディキャップのない子どもよりも、自然淘汰を受けやすいです。環境に関して、ハンディキャップのない子ども以上に危険がつきまといます。ハンディキャップのない子どもでも、子どものうちは親に守られる必要がありますから、ハンディキャップのある子どもはハンディキャップのない子ども以上に親に守られてる必要があります。それは決してハンディキャップの部分を親に補って貰って成長しろという意味ではありません。

 ハンディキャップのない子どもは、その子どもなりに環境に順応する学習を続けて大人になり、社会に出て行けばよいのですから、ハンディキャップのある子どもは、ハンディキャップのある分、ハンディキャップの無い子ども以上に、社会に順応するための学習をする必要があります。それはある意味では親に守られると表現されるかもしれませんが、ある意味ではハンディキャップのない子ども以上に過酷な状況下にさらされることにもなります。ハンディキャップのある子どもも成長して大人になったら、自分の責任で生きていかなければなりません。自分の責任で自然淘汰に打ち勝つ必要があります。そのための準備を、ハンディキャップのない子ども以上に、子どものうちにしておく必要があります。

 ハンディキャップの内容や程度は子どもによって異なりますから、親にはハンディキャップのない子ども以上に、子どもの状態に応じた細かい子育ての知識が必要になります。ハンディキャップのない子どもとは違う子育てが必要になる場合があります。親だからしなければならない、また親だからできることだと思います。子どもは親を信頼して、親に支えられて成長しています。それはハンディキャップのある子どもも同じ事です。そして、ハンディキャップのある子どもは、ハンディキャップのない子ども以上に「助けて」のサインを出します。子どもによっては助けてのサインだらけになる場合もあります。

 その助けてのサインに親は答える必要(このサインに対する答え方は、大変に難しい問題があります。ハンディキャップのない子どもに対する答え方と同じでよい場合もありますし、ハンディキャップの内容に沿って、その子ども特有の対応を行わなければならない場合もあります。具体的にはその子どもによって異なるので、一概には言えません)があります。それはハンディキャップのある子どもの親にとってはとても辛いことだと思います。その辛さから、親が一部手抜きをした対応をする場合もあるかもしれません。親がその辛さから、親にそのつもりが無くても、子どもから見たら逃げ出している場合もあります。ハンディキャップのある子どもへの対応も、その親なりになされてしまうこともやむを得ないことだと思います。

 いろいろとハンディキャップに関する知識が蓄積されてきている現在でも、現実に子育てをするのは親しかいないからであり、また子どもも不完全な対応であっても、親に自分の子育てを求めていますから。第三者や専門家と自称する人たちからいろいろな意見が出るでしょうが、現実にハンディキャップのある子どもを育てるのはその親であり、その親を支えるのが周囲の人の役目、社会の役目だと思います。現実にどこまで親を支えるべきかの問題も大変に難しいです。文化的な問題があるからです。政策的な問題もあるからです。

 大人のハンディキャップのある人を守ることに関しては省略します。難し過ぎて私の能力や思考の範疇を超えているからです。
【2005/03/27 10:35】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもを守る

 子どもは大人によって守られる必要があります。大人が子どもを守ることは、きっと人間の知恵であり、人間が本来持っている能力ではないと思います。人間以外のほ乳類では、母親だけは自分の子どもを命をかけて守ろうとしますが、自分の子ども以外の子どもを自分の子どもの様に守ろうとはしません(一部のほ乳類では集団として集団内の子どもを肉食動物から守ろうとする本能を持っているものがあります)。

 子どもが「助けて」のサインを出しているとき、又は子どもの命が危険な状態にあるとき、大人がその子どもを助けるのは、人間が蓄積してきた知識の「義務」と言う概念に属するものでしょう。助けてのサインが何か、命が危険な状態とはどんな時かということは別として、子どもが助けてのサインを出していると、命が危険な状態にあると、大人が認識したときには、多くの大人はその大人なりにその子どもを助けようとします。何かの理由で助けようとしなかった大人は、その理由に応じて、きっとある期間良心の呵責を感じ続けることになると思います。

 子どもが助けてのサインを出したとしても、大人の方でのそのサインの解釈によって、そのサインに対する反応が異なってきます。子どもの出したサインを、大人の方でサインと理解できなくて見落としたり、その大人なり(この大人なりについてはいろいろと議論があります。どのような対応が良いのかについては、その大人が判断することであり、そこまで深く議論をしません)の理由をつけて軽視したり、逆に過剰に理解したりする場合があります。それらはやむを得ないことであり、その大人なりに精一杯対応したのなら、仕方がないことだと思います。まだ、子どもの出すサインを脳科学的に理解しようとする文化が人間には無いのですから。

 子どもに限らず大人でも、命が危険な状態におかれてしまうことはあります。それは生物としての淘汰されるかどうかの瀬戸際というように理解できます。だからといって人間の場合、助ける必要がありますが、また助けることが人間の知識の蓄積になりますが、例え助けられなくても、人間の場合事故(動物では自然淘汰された)であり、この助けられなかったと言うこともやむを得ないことであり、その助けられなかったという事実を、新たな人間の知識にしていく必要があります。生物としての人間では、人間という種の一つの個体が消失したという事実ですし、人間という社会ではその構成員が一人減ったその結果人間社会に貢献できる人間が一人減ったという損害になります。また、親兄弟から言うなら、今まであった家庭が縮小することであり、それは不幸と理解されてしまいます。親とは子どもがいて親でいられるのですから、子どもが一人減る分だけ親の否定になります。親には一番辛いことです。
【2005/03/26 11:24】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

助けて上げる

 ハンディキャップのある人を見たとき、今までの私たちはそのハンディキャップのある人を助けるのが良いことだと考えてきました。何かできることはないかと考えて、そのハンディキャップのある人にして上げるのが親切だと考えてきました。親切だと思うことをして上げて、「ありがとう」と言われて、良いことをしたと考える人が多いと思います。

 本当にそれがハンディキャップのある人について親切なのでしょうか?ひょっとしたらそれは私たちの親切と思うものの押しつけになっていて、却ってハンディキャップのある人に迷惑をかけているのではないかとも考える必要があります。私たちの親切という概念からの私たちの行動を正当化するだけであり、ハンディキャップのある人たちへの親切になっているかどうかは別問題だと思います。例えハンディキャップのある人が「ありがとう」とお礼を言ったとしても、それが本当に感謝からの言葉なのか、単に儀礼的な言葉なのか、私たちはそこまで考えて上げる必要があります。

 ハンディキャップのある人たちは一生懸命生きています。不利な条件の中で、その人なりに一生懸命問題解決を行っています。瞬間瞬間、生きていくための学習を続けています。学習をして生きていくための方法をその人なりに蓄積していっています。それを私たちの親切という概念からの判断で、優しくして上げるという判断で、妨害している可能性があります。勿論、ハンディキャップのある人に不可能なことについて助けて上げることは大切です。私たちがそのハンディキャップのある人にとって不可能だと判断しても、当人には不可能でないかもしれないし、また不可能を可能にしようと努力している最中かもしれません。

子どもに関して言うなら、ハンディキャップのある子ども達は自分で自分の問題を解決しようとします。いろいろと失敗しても、それで辛い思いをしても、その自分に降りかかっている問題を自分で解決して成長しようとしています。ですから私たちはハンディキャップのある子どもが「助けて」のサインを出すまで、見守って上げるべきでしょう。「助けて」のサインを出したら、そのときは求められた範囲で手助けをすればよいと思います。もしハンディキャップのある子どもが「助けて」のサインを出さないで、その結果子どもがもっと辛い状態になっても、それは見守っていた人には責任はないと思います。それもその子どもにとって大切な学習だからです。
【2005/03/25 08:10】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

普通とは

 私たちが日常、無意識に従っている習慣的な行動、およびそれを裏付けているものが、私たちが普通と感じているものです。私たちが普通と判断することで、普通という状態が存在しています。

それは、人が違えば普通と判断される状態も異なってきます。異なってきますが、同一の文化圏内では、その傾向があります。傾向はあっても全く同じではありません。それは日本での普通が、外国では普通でないことが多いし、日本内でも地方によって、その普通が異なっている場合があります。

 普通と判断される状態が物理量で測定可能なら、比較もできますし、統計的な処理もできます。けれど普通と判断される状態が物理的に測定不可能なら、その比較は感覚的なものになり、きわめて個人的な判断になり、比較ができなくなります。

現実にはその比較ができないものを、相手の感覚に訴えて、比較して普通という判断をするようになります。

 現在は平等の観念が発達しています。平等とはある幅はあっても同一の状態にあることです。その同一(物理量で測定可能でも、感覚的なものであっても)という状態にある(平均的)ということを普通と表現するようになっています。

それらの結果、普通とは普通という人をその社会の中で正当化する目的で使われるようになっています。自分が普通と意識することでその社会の中で安心をしています。普通が当たり前、普通から隔たっていると考えられるとき、それが社会にとって有利なときには優れていると表現され、それが社会にとって不利なときには、劣っている、悪いことであると、理解する傾向にあります。
【2005/03/24 07:31】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

ハンディキャップ

 ハンディキャップとは、周囲の人が判断した判断結果です。周囲の人がその人なりに判断しただけです。その判断が正しいかどうかは別ですが、その人は自分の判断から、ハンディキャップがあると判断した人に対して、その人なりのハンディキャップのある人への対応をしていきます。

 人からハンディキャップがあると判断される人は、その人なりに一生懸命生きています。一生懸命生きていく中で、問題にぶつかり、他の人と自分を比較して、又は他の人から指摘されて、自分のハンディキャップを意識するようになります。ハンディキャップを意識しても、その人なりに社会と関わろうとする人もいますし、耐えきれなくて、より安全な自分の家庭に逃げ帰る人もいます。その逃げ帰った人も、精一杯挑戦しても、社会が受け入れなくて、却ってその人を傷つけるから、逃げ帰っているのであり、社会次第では、その社会の一員として活動できるのです。ハンディキャップを意識しなくても良くなるのです。

 肉体的なハンディキャップはわかりやすいです。解剖学的に平均的な肉体的な因子からひどくかけ離れている場合(現代では入れない傾向)、又は欠損がある場合(多くはこの場合)があります。欠損があっても、日常生活に影響を与える程度が異なります。影響が少なければ、ハンディキャップを意識することが少なくなります。

 知的なハンディキャップは大変に難しいです。知能指数は人間が作った便宜的な指数ですが、あくまでも便宜的なものです。どこまで知能を正確に反映しているのか、証明のしよう法がありませんし、その瞬間の一つの結果にしかすぎません。将来の予測ができるわけではないのです。参考にすることは問題ないですが、それを根拠に決めることは許されないと思います。

 性格的なハンディキャップを決めるのは不可能に近いです。潜在意識の反応ですから、子どもの場合には自分で調節がききません。意識もすることができません。周囲の人がその人なりの経験から判断して決めています。

このように分析してみますと、ハンディキャップのある人とは、周囲の人がそうだと意識すること、または当人がハンディキャップがあると意識することから始まっていて、それは意識の要素と、日常生活の不都合さという要素から決まってくるものであると、判断されます。絶対的なものではないと判断されます。

別の言い方をすれば、その社会において、日常生活に不都合さを生じたとき、その原因をハンディキャップがあると意識して、他人にまたは自分に、ラベルを貼ることで生じています。そして、現代社会は平等を叫びながら、平等という概念に都合の悪い人を、ハンディキャップというラベルを貼って、平等という概念の外において、自己満足をしています。
【2005/03/23 06:53】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

インクルージョン(3)

 一般論として、親の立場から言うなら、自分の子どもにハンディキャップがあることはとても辛いことです。辛くないと言われる親もいますが、それでもハンディキャップのない子どもの子育てと異なっています。辛くないと言う親は、以下の辛さの原因を、その親なりに乗り越えられたからでしょう。
 その辛さの原因の第一は、その親の持つ子育ての知識とは別の知識で子育てをしなければならないことでしょう。その別の知識とは、ほとんど自分が行っている子育てから経験的に知るしか無いという現実があります。ほかから情報を得られても、その情報が自分の子育てに役立つとは限りません。きっと多くの場合役立たないのではないかと想像しています。この親の子育てに関する情報不足は親をとても不安にすると思います。
 そのハンディキャップのあるお子さんの子育てについての情報不足は、将来の子どもの姿が描けない、目標が立たない、希望を持てない、絶えず子育てに関しては緊張状態に、迷いの状態に、親をさせる可能性が高いです。親の持ち続けてきた子どもに関する希望や期待と現実の子どもとの格差に、不安を感じてしまっています。
 子どもを絶えず支えなければならないという事実は、子どもを支えられる親が存在している範囲では可能であるが、親がいなくなったときの子どもの姿を描いてしまうと、親は大変に辛くなります。子どもの辛さ即自分の辛さと考えてしまうのはやむを得ないことです。
 これらの親の辛さは、子どもの支えの一部を親が社会に期待するようになるのは当然のことですし、私たちもその優しさを持つべきでしょうし、現実に努力しています。社会が子どもの支えの一部を行うようになれば、それだけ親は辛さから解放されるでしょうが、社会が行う子どもへの支えとは、どうしても母親の子どもへの支えとは異なってきます。その社会が行う子どもへの支えを、子どもが求めるかどうかの問題は、子どもが決めるべきでしょう。子どもが決めるといっても、多くの場合、子どもが親の意向を感じ取って決めてしまう場合が多いのではないかと思います。もしそうだとしたら、それも仕方がないことと言うしかできないのでしょうね。
【2005/03/22 06:03】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

インクルージョン(2)

 ハンディキャップがあると考えられる人の立場からです。

 ハンディキャップがあると考えられる人も一生懸命生きています。多くの場合(多くの場合は、家庭内では親やその他の家族から守られているが、その他の場合とは、家庭内でもすでに受け入れられていない場合)、その生きていく中で、社会と関わるときに、自分ではどうにもできないハンディキャップに気づきます。そのハンディキャップを意識するかどうかはその人の年齢や経験、状況によると思います。ハンディキャップに気づくと言うことは、出て行った社会で生きにくい、ストレス刺激を受けるという意味です。

 どのようなときに、ハンディキャップのある人が社会と関わろうとするかというと、一つはその人の意志から社会に出て行こうとする場合と、家族の不安からその家族に押し出されて社会の中に出ていった場合があります。いずれの場合も現在の利益や効率や速度を要求する社会、結果を尊重する社会では、これらのハンディキャップのある人は取り残されたり、阻害されたりする傾向にあります。だからハンディキャップのある人と再認識されるわけです。

それはハンディキャップのある人が社会と関わることを難しくします。社会に無理矢理に押し出されたハンディキャップのある人の心を傷つけてしまいますし、その人の意志から社会と関わろうとした人も、その社会を回避しようとするようにしてしまいます。つまりハンディキャップのある人達は引きこもらざるを得なくなります。

 そのようなハンディキャップがあるが社会と関わろうとする人を社会が受け入れるには、社会がそのような人たちに優しくなる必要があります。そのためには社会の常識を変える必要があります。社会が今までの利益や効率を要求する部分と、利益や効率を犠牲にしても、人を大切にする部分を作る必要があります。

それは現実の競争の中で生き残るだけで精一杯の一部の人には大変に難しいことです。けれど多くの日本の人は、厳しい競争を行っていても、まだ余裕があります。その気になりさえすれば、そのようなハンディキャップがある人を身近に感じたら、その人なりにハンディキャップのある人に優しくなれます。

けれど自分の生きていくことで精一杯の人に、ハンディキャップのある人に優しくなれと言うのは無理なことです。また、自分の生きていくことで精一杯の人の中には、ハンディキャップのある人にいじめをする人もいるという問題点があります。

 インクルージョンが叫ばれ、ハンディキャップのある人が以前より社会に出て行きやすくなっている(まだまだ不十分)ことは事実でしょうが、それでもやはりいろいろと障害があり、その障害を減らすことが大切でしょうが、完全になくせるかというと、それは無理だと思います。

そのどうしても取り除くことのできない障害が残っている社会にハンディキャップのある人が出て行くには、ハンディキャップのある人が意欲を持って社会に出て行く必要があるし、家庭では十分に癒される必要がありますが、そのあたりの考え方がインクルージョンの概念の中にあるのかどうか私は知りません。つまり一種のエクスクルージョンの部分もハンディキャップを持った人には必要なのです。



【2005/03/20 08:05】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

インクルージョン(1)

 インクルージョンの概念はきわめて人間的なものです。人間一人一人の生命を大切にしようという概念です。人間一人一人の存在を大切にしようとする概念です。人間一人一人を大切にする概念ですが、人間一人一人を大切にすると言うことは、きわめて人間社会のあり方と密接な関係があります。人間社会と人間個人とのあり方の概念だからです。

 自然界には自然淘汰の原則があり、弱いものは淘汰されて、強いものが生き残り、自然界の環境の変化に対しても耐えて、子孫を残すとともに、生物としての進化をしてきています。その生物進化の頂点に立つ人間だけは、人間同士で協力し合って自然淘汰を放棄するような行動をとるようになってきています。それは現在の文化国家の中では、民主主義、個人主義の概念として確立して、人間同士の間では認め合うようになっています。

けれど民主主義や個人主義の概念が人間同士の間で広まって、互いに認め合っても、現実には強い者、その時代の潮流に乗れた者が恵まれていて、弱い者、その時代の潮流に取り残された者が辛い生き方を余儀なくされています。そこで次には、社会保障という概念が作られて、強者が弱者を救済しようとする仕組みを作るようになりました。

 人間の間でも、明らかに人間同士の競争に不利な人たちがいます。それがいわゆるハンディキャップのある人達です。いわゆる障害者と呼ばれる人たちです。なぜいわゆるという言葉をつけたかというと、同じ人間をこれらの言葉で、区別することが許されるかどうかの問題があるからです。

確かに現実の人間社会の中で生きて行くには、私たちから見て明らかに(この明らかにという判断が間違っている場合もあることに注意して下さい。けれど一応明らかにという判断を認めないと、話が進みません)不利な条件を持っている人たちがいます。

そして私たちは、現実の社会の中でその私たちから見て明らかに不利な条件を持っている人たちも、現実の社会の中で私たちと同じように生活をさせて上げたい(インクルージョン)という、優しい心を持っています。また、一方では、どうやっても現実の社会の中で私たちと同じように生活をさせて上げられないなら、その人にだけ現実社会とは離れた生活をしやすい空間を作って上げよう(エクスクルージョン)と言う様な、優しい心も持っています。
【2005/03/19 09:18】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

ADHD

発達障害者支援法の問題点(子どもの成長する権利を守れ)

私は、子どもの人権とは大人の人権と異なると考えています。子どもの人権とは、「成長する」、「依存する」、「許容される」の三つだと思います。

また、ここで述べる発達障害者とは、学習障害児と注意欠損多動性障害に限定して意見を述べます。

 条文の「・・・学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であって」の部分ですが、現在これだけ科学が発達していて、これらの診断名がついた子どもに関して、脳機能の障害と証明されたことはありません(医者はこれから科学が発達すると証明できると信じていますが)。学習障害や注意欠損他動性障害という概念が医者の間に存在していて、問題の子どもを医者が観察して、学習障害児とか注意欠損他動性障害児と判断しただけであり、問題の子どもが学習障害児や注意欠損多動性障害児であるという客観的な証拠はどこにもありません。

 学習障害や注意欠陥多動性障害の概念も、医者が子ども達を観察して、現代社会に不都合だという理由から作り上げられた概念です。これらの概念に当てはまる子どもには、脳機能の障害があるであろと、医者の間で推測されているだけです。これだけ科学が発達してきて、脳に関してもいろいろな情報を正確に得られるようになっていて、多くの医者が学習障害や注意欠損多動性障害の原因を脳内に見つけだそうとしていますが、未だに見つけだせていません。その事実は学習障害や注意欠損多動性障害の原因が脳の中に無いことを示唆しています。そして未だにこれらの推測からの学習障害児や注意欠損多動性障害児ということで子どもを区別して、その子どもの人権(上記の物)を阻害することは許されません。

 確かに子ども達の行動を見る限り、いわゆる学習障害児、いわゆる注意欠損多動性障害児と言われる子どもがいます。それらの子どもは大人から見たら一見異常に見えますが、子どもとしては異常ではありません。それらの子どもが現在の社会に不都合なだけなのです。現実に、それらの子どもも、その子どもなりの環境が備わっていれば、その子どもなりに成長して大人になり、社会へ出ていけています。時にはとても大きな業績を社会に残せています。

 現在、「ハンセン氏病患者」へのかつての対応が、それらの人たちへの人権侵害だったと問題になっています。らい患者だという名目で、ハンセン氏病患者を強制的に隔離した問題点です。当時の間違った学説から、ハンセン氏病患者の人権を侵したという事実です。それと同じことを、学習障害、注意欠損多動性障害という名目で、政府が行なおうとしています。ハンセン氏病患者の場合には伝染という観点から、ハンセン氏病患者の人権を阻害しましたが、いわゆる学習障害者や注意欠損多動性障害者については、それらの子どもとしは異常ではないのに、普通の子供とはその反応の仕方が違うから異常だとしている点で、この法令は子どもの人権を侵害しています。

 その昔、医学領域でも小人症、巨人症という疾患を考えていました。それは平均よりも遙かに小さい人、遙かに大きな人を、病人扱いをして治療を試みました。しかし、現在はそのようには考えません。それらは身長という概念で人を測定したときの、分布の問題であり、人の身長が自然分布(数学的に根拠がある)をすると考える限り、そのような平均から遙かに離れた身長の人が出てきても、それは自然なことであることがわかっています。その人の身長に見合った生き方をすれば、全く問題なく社会生活ができることがわかっているからです。時にはその身長を生かした生き方をすれば、大きな業績を社会に残せています。

 子どもの反応の仕方(性格)についても、その反応の仕方が平均から遙かに離れているという理由で障害者扱いすることはおかしな話だと思います。それは身長の分布と同じ意味あいです。すなわち、正常と考えられる子どもの反応の仕方の分布の端の方に、学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われている子ども達の反応の仕方があり、その子ども達の反応の仕方は連続的に変化していて、正常と考えられる子どもと、学習障害児や注意欠損多動性障害児との間にはっきりとした線引きはできません。できないから所謂専門家という人の線引きを利用するしか方法がないのです。そして、その子どもに沿った成長の仕方をすれば、全く問題なく大人になれることがわかっているからです。時にはその子どもの性格を生かした成長の仕方をすれば、大きな業績を社会に残せたという実例がたくさんあることも事実です。

 いわゆる学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われるような子どもの反応の仕方は、常識的な見方からすれば異常でしょうが、子ども個人としては異常ではありません。ですから、その行動の仕方を平均的な子どもの反応の仕方に矯正しようとすると、いわゆる学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われるような子どもは大変に苦しくなります。苦しくなっていろいろな問題行動や神経症状や精神症状を出すようになります。これは子どもの自然な成長を阻害するからです。また、経験からの事実でもあります。それはかえって、いわゆる学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われるような子どもの家庭内や学校内での問題を難しくしてきています。

 私たちの経験する限り、いわゆる学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われるような子どもたちはその子どもなりに成長する必要があります。その子どもなりに成長すれば、その子どもなりに社会性を持ち、社会に出て行けます。普通の大人として生活が可能です。いわゆる学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われるような子どもの成長の仕方は、現在の学校制度に適していませんから、親やそれ相当の機関にゆだねる必要があります。けれど現在の学校に通うか、親の元で成長するか、それ相当の機関を利用して成長するのか、その決定はその子どもにあります。周囲の人が決めて子どもに要求しても、子どもは納得できないで、いろいろな問題行動を起こしたり、神経症状や精神症状を出すようになってしまいます。

 いわゆる学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われるような子どもたちが納得して成長するためには、絶え間ない親の細かい配慮が必要です。その絶え間ない細かい配慮は他人では不可能であり、親に任せるしか方法がありません。絶え間ない親の細かい配慮に支えられて、いわゆる学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われるような子どもたちは学校や、家庭、相当する機関での成長が可能です。それを可能にするような公的な機関のサポートが大切です。公的な機関は、いわゆる学習障害児や注意欠損多動性障害児と言われるような子どもをもって苦しんでいる親を支えること、その子どもたちが家庭やそれ相当の機関で成長することを援助することが大切です。子どもに直に関わって、子どもの反応の仕方を変えようとする対応は間違いです。
【2005/03/18 08:31】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

能力の欠損か?

 子どもはその子どもにより、能力の限界があります。その能力の限界は一般に大人より低いです。大人と比べて能力が無いことを能力の欠損と表現して、それを子どもの問題点とするなら、それを正さなければならないと言うなら、それは全くひどい話です。子どもの大人と違うという特殊性を無視した、人間失格の人の話です。子どもは大人と同じことができなくても良いはずですし、子どもはその能力の限り努力すればそれでよいはずです。

 子どもは大人になるまでの間に、その能力を身につければよいはずです。その能力が早く身に付いたのか、遅く身に付いたのか、それはその子どもの価値を決める条件ではありません。大人になって、その能力がついているかどうかが、その人の価値を決める条件です。その意味で言うなら、子どもの能力が大人の能力より低いことを欠損として、問題点としてしか理解できない人は、大人としての子どもを理解する能力が低い人、その人こそ大人として問題の人と言うことになります。

 不登校の子どもは、その能力の限り精一杯学校に行けるように努力して、その限界に達した結果、学校には行けないという意味です。スポーツなどでは、負けても精一杯やったと言うことで誉められるのに、学校生活では精一杯やって、耐えきれなくなって、なぜ非難されなけばならないのでしょうか?

 子どもは大人とは違う。子どもとして認めて、あげて欲しいです。それを認めることで、子どもの成長という物があり、親による子育てが始まるのであり、学校やその他の教育施設における教育が存在しています。子どもが大人と同じことができるのなら、子どもには成長も必要ないし、子育ても必要なし、教育も必要ないです。子どもは大人と違って、持っている能力の限り努力すれば、それ以上できないのはやむを得ないことです。勿論、持っている能力をより伸ばして、問題解決ができればもっと良いだけです。

【2005/03/17 09:28】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

経験させる

 「子供は、早いうちにいろいろな体験・経験をするべき」という意見があります。それは正しいと思います。けれど、元気な子どもなら、親がそのような配慮をしなくても、大人がそのような配慮をしなくても、その子どもなりに環境と関わって、その子どもなりにいろいろな体験や経験をしていきます。その子どもなりに、十分に必要な経験をしていきます。

 人間には知恵があります。子どもの自然な成長を待つばかりでなく、子どもをある方向へ導くことも可能です。そのために親や大人は、子どもに積極的にいろいろな体験や経験をさせることができます。また、子どもの才能を伸ばすために、親や大人が意識的に子どもに、何かの経験をさせる場合があります。その場合、子どもが意図的に経験させられた事柄を克服できたなら、全く問題がありません。克服できないときには、子どもはそれから逃げようとします。そして、逃げられる限り、子どもは逃げ出せた場所で時間を過ごして、機会が来たら克服できなかった事柄に再挑戦しようとします。

 子どもに意図的にある経験をさせる場合、子どもがその経験を克服できなくて逃げようとすると、それを許さない場合が多いです。親や大人は結果を急ぐ場合が多いからです。いったん退いて再挑戦させるという方法を選ぶ場合が少ないからです。それは、子どもが克服するまで、子どもにその経験をさせ続けさせます。

 子どもが克服できない事柄を経験し続けている内に、その事柄を克服できたなら、克服できた喜びで、子どもに大きなエネルギーを与えます。それは新たな挑戦を可能にします。その子どもの能力を高めます。その事柄を克服できないときには、子どもの心は傷ついてしまいます。それを欲求不満性無報酬といいます。しかし、傷ついた子どもの心は見えません。「がんばれ」、「根性だ」と言って、心の傷ついた子どもに挑戦を続けさせます。それはますます子どもの心の傷を深めることになります。
【2005/03/16 07:43】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

ゲーム脳(2)

この論文での大きな誤りは、現実の攻撃的な状況では、感情が大きな役割を果たしていて、その結果ドーパミンの放出を促進する可能性はあります。けれどゲームの中では感情は働いていません。反射的にキーを操作しています。この際には感情の元になる大脳辺縁系は働いていません。その結果脳幹のドーパミン放出性の神経細胞は働いていないと考えられます。

ゲーム脳と言う物が実際には存在していません。先ほども書きましたように、ゲームをしていると主として記憶の場と運動の場である頭頂葉や側頭葉が主として働き、前頭葉は認知という程度しか働いていません。この状態をゲーム脳と表現したのでしょうが、それ自体は、操作の慣れの状態では普通に見られるものです。

大人の場合ある作業をする場合には、前頭葉の思考に基づく動作の選択により、ある作業ができるようになります。その作業になれてくると、思考を省略して作業をするようになります。きわめてその作業になれると、前頭葉は認知のみを行い、後は前頭葉以外の脳で反射的に作業を行ってしまいます(パターン認識)。その方が反応が早くなり、結果を早く出せるからです。

所謂ゲーム脳とは、私の知る限り、きわめて熟練した脳の姿、きわめて熟練した人の脳の姿であり、それはきわめて健康な脳の姿、好ましい脳の姿、きわめて優秀な脳の姿です。
【2005/03/15 09:33】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

思春期と不登校

脳科学的に、登校拒否、不登校は学校で受けた心の傷で、学校や学校に関する物で心の傷が疼くことから生じています。子どもが学校で侵害刺激を受けて辛い思いをしたとき、子どもの周囲にある学校が学校に関する物を恐怖の条件刺激として学習しています。その後、その子どもが学校や学校に関する物に遭遇したとき、子ともは恐怖の条件反射を生じて、とても辛くなります。学校や学校に関する物を回避しようとします。それが登校拒否、不登校です。

登校拒否、不登校になるためには、学校で心の傷を受けています。その心の傷を受ける受けやすさ、心の傷つき易さに、思春期が影響しているかどうかの証明は大変に難しいです。思春期が不登校に影響する事が絶対にないとは言えないと思います。

思春期に不登校になっても、それ以前に登校拒否になっている子どもも多いです。つまり、思春期以前にすでに学校で疼く心の傷を持っているのですが、その心の傷のうずきで学校を拒否する要因より、子どもを学校に押し出す要因の方が大きいために、子どもは学校に行き続けていたという意味です。親や先生、大人はこの子どもが無理をして登校している時期に気づきません。

心の傷が疼きながら学校に行くと、子どもの心は侵害刺激に敏感になっています。他の人では何でもないような侵害刺激で、その子どもの心の傷は深くなっていきます。他の人では何でもないような侵害刺激を繰り返し受けている内に、子どもは心の傷の疼きから全く動けなくなって、不登校になっています。

その不登校になった時点がたまたま思春期であったという事実だけの可能性が高いでしょう。親や先生、大人が、子どもの思春期の時期に子どもの不登校に気づいたという事実であり、子どもが不登校になる大本の要因はそれよりも前にあることに気づいていないと言う事実だと思います。
【2005/03/14 08:16】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

麻薬に手を出す

子どもが覚醒剤に限らず、たばこやお酒、シンナー、万引き、リスカ、暴力、暴走、自殺、その他の大人のいやがることに手を出すのには、その子どもなりのそれらの大人のいやがるものに手を出さざるを得ない理由があります。

大人達が、表面的に、言葉の上で、これらのものが悪いと言っても、一部の辛い状態の子ども達がこれらのものに手を出すのを止めることができません。それどころか、一部の辛い状態の子ども達がこれらのものに手を出すのを止めようとすればするほど、おかしな事に、それらの子ども達はこれらのものに手を出してしまうという現実があります。

 覚醒剤を用いることが悪いことだと、ある年齢に達した子ども達は知識として知っています。覚醒剤がどれほど怖いものか実例を映画や絵で見せられて、かなりの子ども達はその怖さを知っています。

それらの事を知っている子どもが、何らかの理由で辛い状態に追い込まれて、その辛さから逃れられないとき、自分で自分に刺激を与えて、そのとき存在する辛さから逃れようとする子ども達がいます。

その自分に加える刺激とは、そのときの辛さを打ち消す必要があります。そのためには刺激が強ければ強いほど、子どもの辛さから逃れようとする目的を達成できます。子どもは手に入る刺激の強いものを、自分の辛さを解消しようとして使います。

その使う際に、それを使った結果がどうなるのか、使った結果を考える余裕がありません。目の前の辛さを解消するために、反射的に強い刺激のものを使ってしまいます。子どもが辛ければ辛いほど、より強い刺激のものを使います。そのより強い刺激とは、それを使うまでは、その子どもの持っている知識から選択されてしまいます。
【2005/03/13 07:34】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

いじめられて

 いじめを受けている子どもはいじめを口にすることがあまりありません。そのために、周囲の人が、子どもがいじめられていることに気づくことが遅れてしまいます。いじめられている子どもはいじめを受けるととても辛いです。辛いけれど、いじめを受けていることもはいじめを表現することができません。その事実を、いじめられている子どもはいじめられても辛くないと言う人がありますが、それは間違いです。いじめを受けて、「いじめられている」と表現できる子どもはまだ、いじめが軽い状態です。いじめがひどくなると、いじめから逃げられなくなると、子どもはいじめを受けて辛いことを表現できなくなります。

 いじめを受けている子どもは、いじめの場である学校に行き渋りますが、中には一見元気で登校する場合があります。それは学校に行って欲しいと思う親のために、無理をしている姿、良い子を演じている姿です。いじめられている子どもがいじめの現場から逃げ出せないときには、子どもはしばしば良い子を演じている場合があります。いじめに対する恐怖を表現すると、いじめがあると親に気づかれると、親や大人からいじめを無くする対応を受けて、その結果より陰湿ないじめを受けることをすでに経験しているからです。

 いじめる子どもはいじめをしないと自分を維持できない状態にあります。いじめを止めるわけにはいきません。そこにいじめを止めさせられる対応を受けると、表面上いじめを止めざるを得なくなります。それは親や大人の見えないところでいじめを行うことになります。人目に付かないところでのいじめは激しい暴力になる場合もあります。いじめられている子どもは、一度このような陰湿ないじめを経験すると、いじめを止めさせる対応を拒否し出します。それほどひどいいじめが人目のないところでなされて、表現のしようがないほどの辛さを経験しているからです。

 いじめは個人からいじめられる場合と、集団からいじめられる場合があります。いじめの多くは集団からなされます。個人によるいじめでも、集団によるいじめでも、人前では遊びの形で行われますから、仲良し同士が遊んでいるという形で行われます。仲良し同士が遊んでいるという形を取られますから、大人がいじめに気づくことはまずありません。仲間は子ども達の心を感じ取れますが、確たる証拠がないので、いじめを口にすることはできません。また、いじめの可能性でも口にしようなら、いじめられている子どもと同じようないじめを受ける可能性を知っていますから、いじめの可能性すら口にすることもできないのです。

 普通の子どもはいじめられても、いじめを表現できるし、いじめの場所から逃げ出すことができます。けれどすでに辛い状態の子どもは、いじめから逃げ出すことが大変に難しいです。いじめを表現しても受け付けてもらえないし(その子どもの訴えを親や大人から受け付けられるようでしたら、子どもは辛い状態にならないから、子どもが辛い状態にあると言うことは、子どもの訴えが親や大人に届かない状態にあるという意味になります。)、逃げだそうにも逃げ出す場所がない場合が多いからです。そして、親や大人がいじめではないかと気づいたときには、子どもは表現の使用の無いような辛いいじめを受け続けていると考えられます。

【2005/03/12 08:55】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

いじめのターゲット

 いじめとは自分の辛い状態を、他人を遊び道具として遊ぶことで、自分の辛い状態を解消しようとするものです。いじめを続けるには、遊び道具になった他人が、遊び道具であり続けなければなりません。他人を遊び道具にするには、遊び道具にされる人がいじめをする人よりも弱くなくてはなりません。それではいじめられないためには、武道などをして、人に負けないものを持てばよいという発想になりますが、それは必ずしも正しくありません。多勢でいじめをするときには武道などで強いお子さんもターゲットになる場合があります。いくら武道に強くても、一人一人の相手より強くでも、多勢にはかないませんから。

陰湿ないじめについて、いじめられる人を考えるとき、次の三点を考える必要があります。
1.いじめられる人がいじめる人たち(集団も含む)より弱くなくてはなりません。いじめられる人はいじめる人たちより強いといじめを行うことができないからです。
2.いじめをしても逃げられない人をいじめのターゲットにします。いじめを受ける人がいじめから逃げ出したら、いじめを続けることができません。
3.いじめはいじめられる人をいじめのグループに取り込んだ形でなされます。

つまり、いじめのグループは階層構造をしています。その階層構造の一番下にいる人がいじめの対象になります。いじめのグループのメンバーは、グループの中でいじめの対象にならないために、絶えず自分より階層の低い人を確保しておく必要があります。自分より階層の低い人を逃げ出さないようにしなければなりません。自分より階層の低い人がいなくなると、自分がいじめられるからです。

いじめはいじめをすることに意味があります。いじめをして楽しむことに意味があります。ですから、いじめは遊びの形をなしているために、周囲の人にはいじめとはわかりにくいです。いじめと疑っても証拠がない場合が多いです。いじめられる人は上記の3つを満たす人と言うことになります。その際に、いじめられる人の容貌や性格はいじめられる条件にはなりません。ただし、いじめが発覚して、いじめの原因を調べられたときには、子どもたちはいじめられた人の欠点を理由に挙げています。

子どもの中には「あいつを見るといらいらしてくるからあいつをいじめる」と言う子どもがいます。それはターゲットを見るといらいらしていじめてしまうように見えますが、本当はいらいらする要素がすでにあり、ターゲットを見るといらいらを発散させたくなるという意味です。髪の毛がぼうぼうの人、ふけ症の人、服がぼろぼろの人、おどおどした人などがターゲットにされやすいという人がいますが、そのような人はターゲットになったとき逃げ出せない人が多いからです。すでに辛い状態にあり、エネルギー不足になっているから髪の毛にも配慮できないし、ふけにも配慮できないし、服にも配慮できないし、行動がおどおどしてきてしまっています。そのような人がいじめの階層の一番下になってしまいます。
【2005/03/11 09:22】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

いじめられて

 いじめを受けている子どもはいじめを口にすることがあまりありません。そのために、周囲の人が、子どもがいじめられていることに気づくことが遅れてしまいます。いじめられている子どもはいじめを受けるととても辛いです。辛いけれど、いじめを受けていることもはいじめを表現することができません。その事実を、いじめられている子どもはいじめられても辛くないと言う人がありますが、それは間違いです。いじめを受けて、「いじめられている」と表現できる子どもはまだ、いじめが軽い状態です。いじめがひどくなると、いじめから逃げられなくなると、子どもはいじめを受けて辛いことを表現できなくなります。

 いじめを受けている子どもは、いじめの場である学校に行き渋りますが、中には一見元気で登校する場合があります。それは学校に行って欲しいと思う親のために、無理をしている姿、良い子を演じている姿です。いじめられている子どもがいじめの現場から逃げ出せないときには、子どもはしばしば良い子を演じている場合があります。いじめに対する恐怖を表現すると、いじめがあると親に気づかれると、親や大人からいじめを無くする対応を受けて、その結果より陰湿ないじめを受けることをすでに経験しているからです。

 いじめる子どもはいじめをしないと自分を維持できない状態にあります。いじめを止めるわけにはいきません。そこにいじめを止めさせられる対応を受けると、表面上いじめを止めざるを得なくなります。それは親や大人の見えないところでいじめを行うことになります。人目に付かないところでのいじめは激しい暴力になる場合もあります。いじめられている子どもは、一度このような陰湿ないじめを経験すると、いじめを止めさせる対応を拒否し出します。それほどひどいいじめが人目のないところでなされて、表現のしようがないほどの辛さを経験しているからです。

 いじめは個人からいじめられる場合と、集団からいじめられる場合があります。いじめの多くは集団からなされます。個人によるいじめでも、集団によるいじめでも、人前では遊びの形で行われますから、仲良し同士が遊んでいるという形で行われます。仲良し同士が遊んでいるという形を取られますから、大人がいじめに気づくことはまずありません。仲間は子ども達の心を感じ取れますが、確たる証拠がないので、いじめを口にすることはできません。また、いじめの可能性でも口にしようなら、いじめられている子どもと同じようないじめを受ける可能性を知っていますから、いじめの可能性すら口にすることもできないのです。

 普通の子どもはいじめられても、いじめを表現できるし、いじめの場所から逃げ出すことができます。けれどすでに辛い状態の子どもは、いじめから逃げ出すことが大変に難しいです。いじめを表現しても受け付けてもらえないし(その子どもの訴えを親や大人から受け付けられるようでしたら、子どもは辛い状態にならないから、子どもが辛い状態にあると言うことは、子どもの訴えが親や大人に届かない状態にあるという意味になります。)、逃げだそうにも逃げ出す場所がない場合が多いからです。そして、親や大人がいじめではないかと気づいたときには、子どもは表現の使用の無いような辛いいじめを受け続けていると考えられます。
【2005/03/10 07:47】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

学校での人間関係

 子どもは学校のような子どもの集団を好むことは何回も申し上げています。その集団の中で子どもが友達を作ることに関して、子どもは人間関係を築くとは感じていません。ただ、楽しいから、友達を作っています。それを大人が評価して人間関係を築くとしています。子どもにとっては、大人のそのような大人からの見方は余計なこと、迷惑なことです。子ども同士で遊ぶことまで、大人に評価されたくないものです。子ども同士で楽しい時間を過ごし、その中で結果的に学習をして、環境に順応する能力を培って、成長していきます。

 子どもは学校のような子どもの集団を好みます。それは人間でなくても、他の哺乳類の子どもの観察からも裏打ちされます。人間以外の哺乳類の子どもの集団では、その集団の中でその子どもなりの特性を伸ばしていく子ども、伸ばしにくい子ども、場合によっては淘汰される子どもも居ます。個体にばらつきがあることは自然なことです。人間の場合、能力のばらつきが大きいからこそ、能力の種類が多いからこそ、その子どもなりにその子どもの良さを伸ばして、大人になっていっています。その人らしさを確立しています。

 子どもは学校のような子どもの集団の中で、互いに刺激しあって、その能力を伸ばしていきます。その互いに刺激しあうときに、相手の子どもの心を傷つける場合があります。そのような場合には、心が傷ついた子どもは母親の元に逃げ帰って、母親の元で心の傷が癒えるのを待って、又子どもの集団に戻っていきます。心の傷の浅い内は、心の傷は早く癒えます。少しでも子どもの心に傷を帯びたなら、すぐに母親の元に逃げ帰って心の傷を癒せば、短時間に心の傷が癒えて、その後短時間に子どもの集団に戻ることができます。子どもの場合、我慢しないことです。大人は子どもに忍耐や我慢を要求しますが、それは子どもの心の傷を深くして、回復不可能にしてしまう可能性があります。

 心の傷が浅い内に癒すと、早く癒えます。それと同時に、同じ侵害刺激に対して抵抗力を持ってきます。心が傷つきにくくなります。そのためにも、心の傷を受けた子どもは、できるだけ早く母親の元に戻す必要があります。母親も子どもに我慢や忍耐を求めないで、母親の元でゆっくりと完全に、子どもの心の傷が癒えるのを待ってあげる必要があります。子どもの心の傷が癒えたかどうかがわかるのは、子ども自身です。母親にもわかりません。子どもは心の傷が癒えたなら、自然と母親から離れて子どもの集団の中に入っていきます。子どもが母親のそばから離れられないと言う場合には、子どもは癒すべき心の傷を持っていると理解されます。大人はいろいろと理由を付けて子どもを母親から引き離そうとしますが、それは子どもの心を無視した対応です。
【2005/03/09 07:51】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもに良かれと思っても

 大人が「子どものために良い」と思って子どもに関わっても、子供によっては、子どもはその大人の関わりが嫌だと感じる場合があります。その結果、その大人の関わりから逃げ出す子ども、大人に反発をする子どもが出てきます。それは「子どものために良い」かどうかの判断は、各々の子ども自身がすることであり、その判断に基づいて行動するのも子どもです。子どもは子どもなりに判断して行動するのであり、大人の判断に沿って子どもは行動するのではありません。ただし子どもがよい子を演じている場合には異なります。

 大人が「子どものために良い」として子どもに関わっていても、子どもによっては、それが嫌だという具体例として、登校拒否、不登校の問題があります。大人は子どものためとして学校を作って与えています。多くの子どもには学校は喜び刺激です。けれど学校で傷ついた子どもは、学校が辛い刺激なのです。政府や学校は、学校は楽しいところ、子どもには必要なところとして、子どもに学校に来るように言います。けれど学校が辛い子どもでは、それはますます子どもを辛くします。

 現在、学校は子ども達のために作られています。子どもが学校に行くことが当然だとされています。学校の中で子どもが成長するのが常識になっています。多くの子ども達は学校を喜び、学校生活が子どもの成長に大きな影響を与えています。ただし、ある特定の子どもでは、学校は辛いところになっています。はじめは学校は楽しいところだったのですが、ある時から急に学校が辛いところになってきています。その事実を多くの大人は知りません。そして、学校が辛くなってきている子どもの数が多くなってきています。社会問題になっています。

 親が子供のために、先回りして子どもに良かれと言うことをやってしまう場合があります。子どものために物を買い与えることなどもそれに入ります。子どもの希望しない学校に子どもを入学させることなどもそれに入ります。それが子どもの希望とたまたま一致したなら、子どもはそれを喜びます。親から見たら、美談になります。けれどその結果子どもが苦しむようになったときには、親に対して激しい怒りをぶつけます。親は子供がなぜそのような激しい怒りをぶつけてくるのか理解できません。
【2005/03/08 07:21】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

学校の中の戦場

学校は子どもにとって楽しいところです。その楽しい学校に競争が持ち込まれています。競争が生じることはやむを得ないことですが、その程度が子どもの耐えうる能力の限界を超えている学校が多くなっています。競争の中で勝てる子どもはよいです。負けた子どもは、その子どもの回復力以上に打ちのめされています。また、競争に勝てた子どもも、その競争の辛さから、弱い立場の子どもを、いじめるという問題行動を起こしています。

「学校の中の戦場」と表現したのは、学校の中での子ども達の姿を私が戦争に例えただけです。戦争と言っても、決して二つの軍隊がぶつかり合っているような戦争ではなくて、一人一人の人が生き残るために、その人以外の人と、互いに相手を傷つけあっている戦争を描いてみました。それは子ども達が良い成績を取って、親や先生に認められて、条件の良い学校に進学するための競争に似ているからです。

この子ども達の競争の中で(私の例えた戦争)競争に勝ち続けている子どもは良いのです。その勝ち続けた子ども達も、別の勝ち続けた子ども達と競争を強いられ、その新たな競争に勝った子どもと負けた子どもに分かれます。そして、子ども達の間の競争に負けた子ども達は立ち直られないほどに打ちのめされてしまっているのです。心がずたずたに傷ついています。その事実に気づいて欲しいとお願いしています。

子どもには能力の限界があります。子どもの心が傷ついたなら、その心の傷が疼かないところで子どもは成長するしか方法がありません。心が傷ついた子ども達に大人と同じことを要求したら、子どもはますます辛くなって、大人を拒否するようになります。大人は自分の頭で考えたことが子どもにもできると考えがちです。子どもならこうあるべきと考えがちです。けれど心が傷つき、疼く子ども達は、自分を維持するのが精一杯なのです。このような子どもの特性を、大人の人に理解して欲しいとお願いしています。
【2005/03/07 10:14】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

他の子どもが叱られても

先行する恐怖は、次にくる恐怖への刺激閾値を下げてしまいます。つまり、その後にくる恐怖へ敏感になります。先行する恐怖の後に続く恐怖は、その恐怖だけを受けた場合よりも強い恐怖として作用します。

実際の学校生活の中で、恐怖を受けた子どもは、次に受けた恐怖が他の子どもでは無視できるような恐怖でも、強い恐怖として感じてしまいます。その結果、他の人が気づかない内に心の傷を大きくしていってしまいます。

学級内で子どもを叱る先生がいます。何かの理由でこの先生から叱られるなどの恐怖を経験した子どもは、同級生の叱られたのを見ているだけで、恐怖を感じてしまいます。普通の子どもなら、他の子どもが叱られているのであり、自分は関係ないのですが、この先生に恐怖を感じている子どもは、恐怖に対する刺激閾値が低下していますから、他の子どもを先生が叱っていても、自分が叱られているように感じるようになります。
【2005/03/06 07:52】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもが不登校の原因を判断

 登校拒否、不登校の原因を判断するのは子どもです。決して親や先生やその他の大人ではありません。登校拒否、不登校になった子どもが、学校が恐怖の場所だと潜在意識で判断して、潜在意識で学校を回避しています。外見上、学校を拒否しているように見えます。この事実は、登校拒否、不登校を起こした子どもが、学校が自分の恐怖の原因であると潜在意識で判断して潜在意識で行動しているという意味です。

 親や先生、周囲の大人がなんと判断しようと、登校拒否、不登校を起こした子どもが、学校が自分の登校拒否、不登校の原因だと判断しているのですから、仕方がありません。親や先生、周囲の大人が考えた子どもの登校拒否、不登校の原因が、登校拒否、不登校をしている子どもの心に乗り移って、その子どもの判断となることはできません。登校拒否、不登校の子どもは、自分の判断で登校拒否、不登校を起こしています。親や先生、周囲の大人は、子どもの判断に沿って対応をしない限り、解決がないのです。

 では家庭に問題がないかというと、登校拒否、不登校の子どもは家庭に問題があるというようには判断していません。少なくとも家庭には登校拒否、不登校になる原因はないと潜在意識で判断して、登校拒否、不登校の子どもは潜在意識で家庭に逃げ込んでいます。これも子どもがそのように判断しているのですから、周りの大人がなんと言おうと、子どもの判断が正しいのです。子どもの判断を信じないと、登校拒否、不登校の問題解決ができません。
【2005/03/05 07:58】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

引きこもりが必要なわけ

 大けがをした人は入院して安静を保つ必要があるように、心に大けがをした人は安全な場所に避難して、心の傷を治す必要があります。登校拒否、不登校の子どもは学校で心に大けがをして、学校や学校に関する物で疼く心の傷を持っています。心の傷が疼く限り、心の傷は治りません。心の傷が疼かないような家庭に避難して、心の傷が治るのを待つことになります。

 心の傷の疼く人の中には、心の傷を疼かせる物を攻撃する人がいます。大阪寝屋川の17歳の少年事件もその例です。登校拒否、不登校、引きこもりの子ども達がこのような事件を起こさないためには、学校に行かない子どもを責めないことです。働かない子どもを責めないことです。もっと良い方法は、子どもの引きこもりをそれでよいと認めてあげることです。子どもを安全な場所に引きこもらせて、心の傷を癒してから社会にたいして再挑戦させてあげることです。子どもは安全な場所で心の傷を癒して、その傷が癒えたら、子どもの意志で自分から社会に挑戦していきます。

 多くの人たちは子どもの引きこもりを問題視しますが、心が傷ついた子ども達には絶対に必要なことです。多くの人たちは子ども達が起こしたいろいろな問題から、引きこもりが子ども達をそのような問題に導いたと考えていますが、子どもが安全に引きこもれなかったから、子どもが問題行動を起こしています。大人から見て、辛い状態の子どもを責めなければ、子どもは問題行動を起こさないです。大事件を起こさないです。けれど、普通の普通の大人なら、心の傷という言葉は知っていても、その実体を知りません。子どもの心の傷というものを理解できません。子どもがなぜ引きこもらなければならないのか、理解できません。

 登校拒否、不登校の子どもに関しては、学校が子どもの心を傷つけています。学校が子どもの心の傷を疼かせています。引きこもりの子ども達に関しても、大本の心の傷は学校が付けていることが多いです。その学校について何かをして、子どもの心の傷を癒す方法は原則としてありません。親にも学校と関わりながらの解決の方法はありません。ただし、例外はあります。それはきわめて幸運な例です。それは何かの理由で学校が大きく変化して、子どもの心に関して大きな喜びを与える場になった場合です。

 多くの場合、学校や先生は子どもの教育に一生懸命です。子どものために良いことをしていると考えています。子どもを傷つけたなどとは考えられません。学校では成績などのある教育目的のために、成果を出さなくてはなりません。成績をあげるための努力はなされていますが、子どもがなにを感じているのか、子どもをどうしたら守れるのか、その配慮は全くなされていません。それどころか先生方は子ども達の心理も知らないで、子ども達を良く知っているつもりになっています。

 多くの場合、親は学校の問題点を解決しようとします。学校の問題点を解決したら、子どもは学校に行けるようになると考えます。けれど子どもが問題点だと親に話したことが、必ずしも本当の問題点ではありません。本当の問題点である場合もありますし、子どもがただそのように理解しているだけの場合もあります。本当の問題点を子どもが教えてくれたとしても、学校内にまだ他の問題点がある場合が多いです。一つの問題点を解決したところでまだ他の問題点が残ることになります。問題を解決しても学校に行けない子どもが、親や大人達から責められて、より辛くなる場合があります。
【2005/03/04 09:58】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

学校に行きたい

 登校拒否、不登校の子どもは「学校に行きたい」と言います。けれど学校には行こうとはしません。それは多くの登校拒否、不登校の子どもの知識の心では「学校に行くべき。だから学校に行きたい」となっています。その知識の心を反映する言葉で「学校に行きたい」とはっきりと言います。そこで親や多くの大人は、「この子どもは学校に行きたがっている。学校に行きたがっている子どもが学校に行けないのはかわいそう。何とかして学校に行かせてあげよう」と判断します。そこでその子どもが学校に行けるようにいろいろと配慮をしますが、子どもは学校へ行こうとしないばかりか、却って子どもの状態が悪くなります。その子どもの様子を見て、親や大人はこの「子どもはおかしい。言うことと行動が伴っていない。いろいろな症状を出すから、この子どもは病気ではないか」と考えるようになります。

 登校拒否、不登校の子どもの知識の心では「学校に行くべきだ。学校に行きたい」になっていますが、体の行動を表現する情動の心は学校で疼く心の傷を持っていますから、「学校には行けない」になっています。その結果その子どもを学校に行かそうとしても、学校には行こうとしないのです。その子どもを無理に学校に生かそうとすると、逃げ出したり、暴れたり、いろいろな神経症状や精神症状を出すようになります。それは情動の心が子どもの命に直結しているからです。

 登校拒否、不登校の子どもが「学校に行きたい」と言ったとき、「そうだね、じゃあ学校に行きなさい」と親や大人が言うと、元気に学校に行く準備をする子どもと、逆に子どもの状態が悪くなる子どもがいます。「学校に行きなさい」と言われて元気に学校に行く準備をする子どもは、よい子を演じている子どもです。いくら元気に学校に行く準備をしても、いざ学校に行く段階になると、学校に行けなくなります。また、「学校に行きなさい」と言われて、状態の悪くなる子どもは学校という概念が子どもの心の傷に強くふれたのです。心の傷がうずき出したのです。当然学校には行けません。

 登校拒否、不登校の子どもが「学校に行きたい」と言ったとき、「学校には行かなくても良い」と親や大人が言うとほっとする子どもと、怒り出す子どもがいます。「学校には行かなくても良い」と言ったとき、ほっとする子どもは、子どもの本心が認められて安心した姿です。「学校には行かなくても良い」と言ったとき、怒り出す子どもは子どもの知識を否定されて怒り出しています。神経生理学の欲求不満性無報酬という現象から怒りだしています(知識で「学校には行かなくてはならない」という知識を強く持っている子供ほど、怒りが強くなる)。しかし、「学校には行かなくても良い」という言葉は子どもの本心である情動を認めていますから、子どもはまもなく怒るのをやめて落ち着きます。
【2005/03/03 07:18】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

思春期以前の子どもの人権

 人権とは、生物としての人間の間での約束事です。一人一人の人間を大切にすると言う考え方から、人間が考え出した物です。人間のあり方も、身体的な状態、心(脳)の状態により、変わります。身体も心も成熟した大人、身体は成熟しているが心は未だ成熟していない思春期以後の子ども、身体も心も成熟していない思春期以前の子どもと分けて考える必要があります。そして、これらの区別もはっきりとできる物ではありませんから、当然、これらの時期には重なり合うところがあります。

子どもの人権を考えるときの子どもとは何かの問題があります。その問題は大変に難しいでしょう。ここでは思春期以前の子どもの人権について考えてみます。この時期の子どもの特徴として、
1.肉体的に成長の段階である。子ども自身も成長しようとする意欲を持っている。
2.物質的に親に、又は親に相当する人に依存をしなければならない
3.情動の心は完成しているが、習慣の心に知識や経験を蓄積している段階。思考の心は特別な場合を除いて機能していない
の、三つがあげられます。

子どもの時期は親に守られて、自然淘汰に耐えうる肉体と、自然淘汰に耐えうる永久記憶を作り上げていく時期です。その子どもの内に作り上げられた肉体や永久記憶(知識)の内容によって自然淘汰にうち勝ったり、自然淘汰されたりします。これらの前記の三つの特徴は、子どもが大人に守られない限り、自然淘汰を受けやすいことを意味しています(ただし、現代の人間文明の発達により、生命を失うという形での淘汰のされ方は少なくなりましたが、心を失うという形での淘汰は以前より多く存在しています)。これらの特徴は互いに関係しあっていますから、これらの特徴を一つ一つ分けて考えることは大変に難しいです。また、これらの特徴があることによって、大人の人権とは違っていますし、違った考え方が必要です。それをあえて行ってみます。


1.肉体的に成長の段階である。子ども自身も成長しようとする意欲を持っている。
=成長
これは子どもの本能です。肉体的な欲求を含めて、子ども特有の情動反応です。情動反応ですから、潜在意識であり、私たちは子どもを観察することから知ることができます。また、他の動物にも共通していますから、他の動物で実験をすることで、より詳しく知ることが可能です。

 人間を含めて全ての哺乳類は、与えられた環境に順応するように成長しようとします。人間の場合、大人が意識的にそれを阻害しようとする場合があります。それも、子どもの幸福のためと大人が考えて、子どもによかれと考えて、子どもの成長しようとする意欲を奪い去る場合があります。その現れの一つの形として、子どもの登校拒否、不登校、引きこもりと言われているものがあります。親の子供への虐待も、この子供の成長する意欲を奪う物であると考えられます。

2.物質的に親に、又は親に相当する人に依存をしなければならない
=依存
 子供は自分の成長に必要なものを自分で得ることは原則としてできません。できたとしてもとてもそれには大きな危険を伴います。淘汰される可能性が極めて高くなります。子供が危険を回避して淘汰されないためには、大人によって子供は危険から守られる必要があります。また、子供も大人によって本能的に(情動から)守られようとします。

 以前の社会や、物質的に貧しい社会では、家族の生活を維持するための物質的な欲望から、子どもの成長に配慮をしない子どもへの対応がなされる場合がありましたし、現実にもあります。子どもの立場から言うなら、物質的に不足していても、子どもの成長をしようとする意欲を保証してあげた方が良いです。子どもの成長の程度によっても異なりますが、子どもに必要最低限の物質が与えられて、子どもの肉体的な成長が保証されれば、その他の物質的な不足の問題は子どもの方で解決していきます。

3.情動の心は完成しているが、習慣の心に知識や経験を蓄積している段階。思考の心は特別な場合を除いて機能していない。その結果失敗から学習が許される。
=許容される
 大人と子供との心の構造の違いを認めることにあります。すなわち、人間を含めて動物の受けた刺激やそれに対しての反応は、全て脳の中に記憶されます。その記憶は強化されない限り、時間とともに消失していきます(一時記憶)。強い情動反応を伴った記憶や、強化された(繰り返し同じ情報が使われる)記憶は永久記憶となり、それ以後その記憶を利用することが出来ます。

 子どもの時期は親に守られて、この永久記憶(学校の勉強を含めて)を作り上げていく時期です。それは大人も同じですが、子供の場合そのときまでにできあがった永久記憶から反射的に反応して行動します。それに対して、大人はしっかりとできあがっているいろいろな永久記憶を組み合わせたり、加工したりして新たな記憶情報を作り、その記憶情報から行動すること(思考行動)ができますが、子供にはそれが原則としてできません。子供が大人になったら、この獲得した永久記憶を選択したり、加工したりしてできあがった記憶情報から行動をするようになります。その永久記憶の内容によって自然淘汰にうち勝ったり、自然淘汰されたりします。

 つまり子供は大脳辺縁系に存在する情動記憶と、大脳新皮質にある陳述記憶と操作記憶から、反射的に行動するのに対して、大人は情動記憶からの反射的な行動を押さえて、大脳新皮質にある操作記憶と、その大人なりに加工した陳述記憶から行動するという違いがあります。子供の場合、情動記憶からの行動を外力で押さえつけると、暴力的な反応を示すか、神経症状や精神症状などの病的な症状を出して、とてもつらい状態になってしまいます。
【2005/03/02 07:36】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

欲求不満

 欲求不満とは、欲求(**がほしい、**になって欲しい)が実現することを期待していたのに、何かの理由で、その人の納得できない理由で、その欲求が実現しないことを指しています。この場合の欲求とはたまたまそれを欲しがったと言う意味ではなくて、当然それを得ても当たり前、当然その欲求が実現すべきなのに、実現しなかったと言う意味です。

 無報酬とは、当然それを得られて当たり前(報酬)と考えられる物が、何かの理由で、その人の納得できない理由で、その得られるのが当たり前の物が与えられなかった、得ることができなかったことを指しています。

 つまり、当然そうなるべき、当然得られるべき、物や結果が、納得できない理由で、期待する結果を得られなかった場合の状態です。このとき、人間は動物は大変に心が不安定になります。それをネズミで実験することができます。ネズミの場合、嫌悪刺激の大きき差を脱糞(ストレス、嫌悪刺激の大きさに比例して、糞を出すと言う性質)という尺度で測ることができるからです。たとえばネズミにある操作をさせて、その操作をすると餌がもらえるということを習慣づけておきます。その習慣化した操作と餌との関係を突然とぎれさせて、操作をしても餌を与えないと、ネズミは不穏行動をとりますし、脱糞をします。その脱糞の量は、習慣化した度合いが強いほど多くなります。つまりネズミには大きな嫌悪刺激となっていることを示しています。

 人間の場合も当てはまりますが、実験のしよう法がありません。たとえば毎月の賃金をもらっていたのに、突然賃金をもらえなくなったら、その人は激しく怒ります。人間はこれを理由を付けて考えますが、本当は理由はないのです。もらえるべき物が納得できない理由でもらえないこと、その事実だけで神経生理として回避行動や攻撃行動、時には神経症状、精神症状が出ても当たり前なのです。

 子どもでももらえるのが当たり前となっているお小遣いがもらえないと、子どもは怒り出します。元気な子どもが学校へ毎日行っているのに、それを強引に止めたら、子どもは怒り出します。けれど学校へ行きたくない子どもを、学校へ行くのを止めたら、子どもは怒り出しません。そこには理由はないのです。神経生理学的な自然な反応なのです。

 1+1=2と信じ込んでいる人に1+1=10(コンピューターの中ではそうなっている)と言いますと、びっくりして反論してきます。これも人間では理由を付けて考えますが、理由を付けなくても、1+1=2と信じ込んでいる人には、1+1=10と言われた瞬間、神経生理学的に回避行動を生じてしまうのです。

 そのような意味で、習慣化した物を変えるのは大変に難しい、習慣化すればするほど保守的になる理由は、ごく自然な神経生理学的な反応なのです。
【2005/03/01 08:38】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

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