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登校拒否の部屋
登校拒否、不登校、引きこもり、青少年問題を子どもの立場から考えます。 参考 登校拒否研究室 インターネット小児心療内科医院

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極めつけ

ある不登校の子どもの母親からです。

私は、こどもの要求を全て、受け入れる対応をしてます。
こどもに合わせると疲れちゃうから、こどもに合うように、変わってきたんだと思う。
学校に行かないことを認めるしかなっかた時、何が良いのか、悪いのか、全くわからなくなり、じゃあ~こどもの言うとおりしようかなぁ!こんな感じで、受け入れ作業が始まったかな。もちろん、私も、不安になる時はあるけど、不安は続かないよ。

そうね。辛いこどもの気持ちは、わからないなぁ!わからないから、ほっておく。こっちからは、話さない。言われたら、聞く、動く。これが、日々の生活さ。でも、家の中には、笑いがあります。結局、わからない事ばかりだけど、答えもいらないなぁ。



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【2005/04/30 10:37】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

いつか本当に・・・

(ある不登校の子どもを支える母親からです)

あなたの暗闇に光がみえないように
今の私にも何もない。

この暗闇を手探りで行くには、不確かなものでも、かすかなものでも光が欲しくて。
ちいさな言葉にすがってみる。
その言葉を道しるべのようにして小さな一歩を踏みだした。

あなたのかすかな言葉が聞きたくて、神経を研ぎ澄ませている。
どんな小さな言葉も逃さない…。

今は届かなくても、今は無理のある言葉と感じられても…

でも、いつか私の本当の言葉になる。
あなたのこころに届く、本当の言葉になる。

それまで私も止めない。
あなたに届くまで、私は止めない。

あなたの要求に答え続ける。

大切なあなたの「こころの言葉」を受け取るために、
いつか本当の「私の言葉」にするために、

わたしはやめない。

いつか本当に…
【2005/04/28 14:44】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

ある不登校経験者から

ある不登校経験者からの詩です。


母へ

この人は、私のことを
本当に、わかろうとしてくれているのかしら。
本当に、認めてくれようとしているのかしら。

この人は、一体どうして
『いつも言いなりになってもらうことを望んでいる』
と思い込んでいるのかしら。

要求をビクビクと受け入れられるたび、思います。

ああ、この人は、もう、私なんか見ていない。

私のことを、なにか恐ろしい、
理解を超えた狂人だと思っている。

見ているのは私の表情ではなく安いマニュアル。
聞いているのは私の声ではなくセンセイの言葉。

だからねぇ。
あなたに私の声が届くまで、私はやめない。
【2005/04/27 14:37】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもはなぜ勉強をするのか(2)

 子どもの立場から言うなら、一部の子どもは、勉強することがおもしろいから、又は親からほめられるなどの、ご褒美が欲しいから、自分から勉強をしています。そうでない多くの子どもは、勉強しないと親や先生から叱られるから、仕方なく勉強をしています。親や学校からの恐怖がなければ、勉強しない子どもが多いです。だからこれらの子どもの勉強はきわめて効率が悪いです。

 子どもが興味を持たない勉強を、子どもにして貰うには、勉強をしたらその子どもにご褒美をあげるか、勉強をしないとその子どもに恐怖を与えるかの方法があります。現在の学校の多くは子ども達に恐怖を与えることで勉強をさせようとしています。勿論先生方はその積もりはないのですが、子ども達はそのように理解しているからです。その結果、先生方にはその積もりはなくても、子ども達の心は傷ついていきます。現在の子ども達の問題を生じています。

 学校の勉強は、子どもがその気になれば短時間に追いつけます。たとえば中学生年齢の子どもがその気になって小学生の勉強をはじめると1~2週間で追いついた子どもを経験しています。高校生年齢の子どもがその気になって中学校の勉強をはじめたなら、2~3ヶ月で追いついた子どもを経験しています。

 普通の大人でも、大学時代に勉強したこととは全く関係ない職場に就職して、全く新しいことをその人なりにマスターして仕事が可能になっている人は多いです。

それでは何のために、子ども達は勉強するのでしょうか?
【2005/04/26 20:33】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

なぜ子どもは勉強をするか(1)

 ある会でのある人の意見です。
「子どもが、役に立たないから勉強したくないと言っているのは、自分で自分の首をしめているようなものですよね。このような、甘えたことばかり言って、嫌なことから逃げてるんですからね。主要科目は確かに実生活からは役に立たない一面があるものの、子供の時期にやっておかないと誰も補ってくれなくなってしまうのですからね。」
この意見の中の、役立たないから勉強をしたくないという意味は二つあると思います。

 その一つは言葉通りに、「将来の自分のなりたい職業が思い当たらない。勉強が役立つような職業にはなれそうもない。勉強をしても勉強が役立つような職業に就けないなら、勉強しても意味がない」という意味です。

もう一つはその裏で子どもが意味していることです。それは「その子どもにとって、今している勉強が勉強が楽しければ、勉強に興味を持てるから勉強するけど、勉強をしても楽しくないから、勉強に興味を持てないから、勉強ができないし、勉強をしたくない。勉強ができなければそれ相当の職業に就けない。その結果自分のなれそうな将来の自分の姿を想像できない。希望がない。夢がない。」という意味です。

 子どもに勉強させるというのは、大人の発想です。子どもが大人になって条件の良い会社や官庁に就職できるように願うからです。学校の成績が良くないと、社会で認められた大学に入れなと、その後の就職に不利だから、親は子どもに勉強をして欲しい物です。子どもの生活の安泰は、親の老後の安泰を意味していると考えているからです。経済的には子どもに頼らないと考えている親でも、子どもの煩わしい問題には関わりたくないという意味でもあります。
【2005/04/25 06:04】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもを理解する

 さもわかったような言い方で申し訳ありません。いわゆる不登校、引きこもりで辛い状態にある子どもと親との関係を観察して、そして子どもの心の構造から推定していることです。

 多くの辛い状態にある子どもは、自分を完全に理解してとは言っていないと思います。多くの辛い状態にある子どもが行動や症状で言っていることは、自分を信じて見守っていて欲しいということだと思います。

子どもにとって必要なことは言うから、言うことだけを親はしてくれて、それ以外のことは何もしないで待っていて欲しいと言うことだと思います。子どもが要求しない限り、親は子どもの辛さや不安を共有しなくても良い、また、親が揺れてしまうのも仕方ないけれど、できたら揺れないで、ただ信じて待っていてくれればよいということだと思います。

 子どもが辛さや不安を共有してくれと言った場合には、親は子どもの辛さや不安を共有するために、子どもに付き合わなければならないのですが、その際に子どものすべてを理解できるわけではありません。

特に子どもの反応や行動の多くを占める潜在意識については、親は子どもから感じ取るしか方法がありません。それは子どもの要求に応えられているかどうかの不安を、そして子どもの辛さや不安に十分に共感できているかどうかの不安を、新たに親に生じさせます。その不安から、親は揺れ動くことになります。それは仕方がないことだと思います。親はその不安から揺れ動く割合を少なくすればよいだけだと思います。

親はその不安から揺れ動く割合を少なくするために、親なりの努力をすればよいだけだと思います。そのためにはパートナーの協力も必要でしょう。そのためにカウンセラーも必要な場合もあります。そのために親の会も上手に使う必要があります。

 子どもは一人一人性格も違うし、経験も違います。親も一人一人皆違います。同じ子どもや親の言葉でも、その言葉の意味合いや背景は皆違います。しかし子どもと親との関係の基本は皆同じのようです。そこさえ十分にふまえて子どもと向き合えば、後は可能な限り子どもを理解すればそれでよいのであり、完全に理解しようとすることが無理なのだと思います。

この子どもと親との基本的な関係を理解すること、子どもを理解することは親の能力の範囲でよいことを、現在子どもの問題で苦しんでいる親に伝えるのが経験者の親の役割だと思います。
【2005/04/23 20:04】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

自我の確立(5)

結論

子供の自我に関して、感情としてとらえられる部分は、基本的に、母親を通して、日本文化を受け入れて、2,3歳で急激に完成している。

その後の(親を通しての)感情経験から、学習から、その表現はとぎすまされたり、修正されていく。感情としてとらえられる部分の自我が完成すると、子供はその完成した自分の自我で行動しようとする。それが親や周囲の大人の反応の仕方と違うときには、親や周囲の大人は子供が自我を発揮していると感じる。

他方、感情が壊されたとしてとらえられる部分は、恐怖の条件反射の学習として、生じてくる。

子供の自我に関して、知的としてとらえられる部分は、感情としてとらえられる部分の後から、できあがってくる。

幼い子供が、その子供の経験から、学習から、最初に作り上げる概念は操作記憶である。

陳述記憶が可能になる小学生ぐらいになると、子供の経験から、学習から、作り上げる概念は陳述記憶の物の割合が増えてくる。

小学生の後半ぐらいから、複数の概念を組み合わせて新しい概念を作ることが可能になってくる(=思考が可能になってくる)。

子供は操作記憶の概念から行動することは可能であるが、概念を組み合わせた新しい概念(思考)から行動することは大変に難しい。
【2005/04/22 18:50】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

自我の成立(4)

幼児期になると、子どもの感情に関する能力は大人と同じように確立しています。基本的な感情の反応の仕方(大脳辺縁系の機能)は決まっていますが、感情に関する情報処理の脳(大脳新皮質連合野)の発達により、より細かく条件分けされて、より細かい条件下での反応の形になります。

その発達と機能強化(記憶といえる)は繰り返しの経験であり、その繰り返す動機はまねであり、まねの繰り返しです。芸術的な能力はこの時期に基本的な物ができあがっていきます。言葉や表情、雰囲気に関する反応は、このような形の反応で始まっています。刺激に対して、感情の表現としての操作記憶が、強化されていきます。類人猿の脳の機能に相当します。

子どもにより若干異なりますが、遅くとも5,6歳になり、陳述記憶が可能になってくると、言葉や文字と陳述記憶や操作記憶との関連ができあがっていきます。概念が成立してきます。概念を表現する言葉ができあがってきます。言葉による情報交換が可能になり、完成していきます。表象からできあがった単純な言葉や文字から、単純な概念を持ったり、概念を利用して、単純な陳述記憶や操作記憶を呼び起こして、行動するようになります。しかし全体としては感情的な反応が多くを占めています。

小学生段階になると、依然として感情的な反応が多いですが、陳述記憶の発達により、また前頭葉のワーキングエリアの発達により、表象からできあがった単純な言葉や文字から、だんだん複雑な言葉や文字になっていき、単純な概念を組み合わせた複雑な概念が持てるようになっていきます。複雑な概念を利用して、複雑な行動をするようになります。けれどそれはあくまでも過去の経験を思い出して、複雑な行動をするだけであり、決して概念同士を組み合わせて、その概念に沿って(思考をするという意味)、自分で行動の情報を作り上げて、その作り上げた情報から行動するのではありません。
【2005/04/21 19:15】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

自我の成立(3)

子どもが自我を出して、親から見たら反抗期に見える時期は、感情に関する能力が確立した時期です。大人と同じ感情の仕組みを持っていることになります。感情に関する能力という意味では大人と対等です。基本的にはもう変えることができないほど、完成しています。その結果時には大人顔負けの感情の反応の仕方、表現をする場合もあります。また、一方では大人より遙かに小さい子どもですから、大人は子どもの感情の反応の仕方も未熟と考えて、無視してしまうことも多いです。その際には、すでにその子どもの自我を否定したことになり、子どもに葛藤状態を生じてしまいます。

子どもの感情の能力、情動を変える方法は、条件反射をつかいますが、現実の生活の中で子どもが条件反射を利用して子どもの感情の反応の仕方を積極的に変える対応を受けることはありません。ところが実生活の中では、子どもは大人からきわめて大きな恐怖を受ける場合があります。大きな恐怖でなくても、恐怖を繰り返し受けることがあります。その際には、子どもは恐怖を生じる条件刺激を学習してしまいます。それは子どもの性格の変化、子どもの心がゆがんだと、周囲の大人が感じられるようになります。

親から見て反抗期を感じる時期を過ぎると、感情に関する能力は、恐怖の条件反射を学習して、子どもの心がゆがんだと感じるような感情の変化しか、現実にはありません。感情の反応の仕方と平行して、子どもは機械的な反応の仕方を学習していきます。これは感情に裏付けされますが、感情とは独立した反応です。繰り返すことで、その反応の仕方は強化されていきます。たとえば手の使い方、歩き方など、いわゆる癖として親が感じる部分の多くがこれに属すると思います。
【2005/04/20 21:06】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

自我の成立(2)

胎教という言葉があります。妊娠10ヶ月に近くなると聴覚の領域は完成してきて、音に反応するようになります。その反応の仕方は本能的な物(生得的=動物の反応の仕方と同じはず)です。それは大脳辺縁系で評価されて、中心灰白質で反応の情報を作って、錐体外路を通して体中の筋肉に伝えられて、また自律神経を介して内臓のすべてに送られるはずです(情動反応=感情の表現)。

具体的な記憶はできないでしょうが、使われた神経回路は強化されていくはずです。その結果聞き慣れた音の種類について、より反応しやすくなると考えられます。どのような音が胎児に届いているのかの研究があったと思いますが、手持ちにはありません。聴覚による学習は出生後、大脳新皮質連合野の発達で、具体的な音の記憶をするようになります。このごろの音の経験の方が遙かに大切だと思います。胎児や乳幼児は、刺激に関してほとんどすべて受け身であり、受けた刺激の種類や量、そしてその刺激を処理する脳神経細胞の量などから、胎児の時受けた刺激の影響より、出生後の方が遙かに大きな機能が脳内で働いているからです。

視覚野が成熟して目が見えるようになると、光に対してはいろいろな生得的な反応があります。それらは光からの情報を取り込もうとする動物としての本能(生得的な機能)です。そしてその生得的な機能から得られた情報は、完成しつつある連合野に記憶されていきます。基本的な、これから成長するに必要な情報が、蓄えられていきます。その蓄えられた情報を元に、反応することができるようになった能力(多くは生得的な機能)を利用して、反応をはじめるようになります。特に、感情に関する記憶がどんどん蓄えられていって、2,3歳ぐらいまでに、感情に関する基本的な反応の仕方が成立してしまいます。

続く



【2005/04/19 20:26】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

自我の成立(1)

自我がどのようにして成立するかを、脳科学的に考えてみます。それは脳の成熟と密接な関係があります。

子どもは親の鏡だと言うでしょう。正しいとは言いませんが、これはある意味では正しい部分もあります。つまり子どもが自我を出しだしたときには、すでに子どもは親(この部分が鏡に相当)や子どもの周囲の人の影響を受けて自分の基本を作り上げたと言うことを意味しているからです。

脳の解剖学的な事実を見る限り、子どもは生まれてくるときには、一部の感覚器に相当する領域と一部の運動に相当する領域とを完成してきています。それ以外はまだ脳ができあがってきていないから、ほとんどの部分の脳は生まれ落ちてから完成させていきます。完成させながら情報を記憶していくのですから、例えれば吸い取り紙に水を吸い込ませるように記憶していくのだと思います。ただし、それは知識の領域でなく、感情や反応の領域のようです。知識の領域での記憶は4,5歳にならないとできてこないようです。

子どもは生まれ落ちて、感情や反応の領域が完成させていくと同時に、その子どもに関わる人の感情や反応を受け入れて、自分の感情や反応の基本を完成していきます。その間はまねであり、親やその子どもに関わる人はおもちゃのような子どもを感じているでしょう。けれど子どもの感情や反応の仕方が完成したときには、子どもはその完成した感情や反応の仕方で反応をするようになり、まねの行為がその分少なくなります。
【2005/04/18 14:55】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの持つ死の概念

大人の立場から言うなら、子どもが死の概念を身につけてくれて、人間の死に繋がるようなことをしないで欲しいものです。子どもの立場から言うなら、大人と同じような死の概念を大人と同じように理解するには、やはり大人にならなければ無理だと思います。勿論子どもはその子どもなりの死の概念を持っています。その概念は大人から見たら笑ってしまうものから、大人とほぼ同じものを持っている場合もあります。

子どもは知識としては、教えれば死の概念を持つことができますが、それが行動に反映され出すには大人にならなければなりません。子どもが死とはこのような物だと言葉で大人の希望するようなことを言ったとしても、その言葉通りに死に対して対応できるかというと、それは特別な場合を除いてできないです。つまり、子どもの試験と同じで、ペーパーテストでは正解をかけても、子どもはその内容に沿って行動できないというのと、同じようなことです。子どもは死を知らなくても、生きていけるし、成長もできるからです。

なぜ大人が、子どもに死を知って欲しいかと言うことを考えてみてください。大人にとって子どもが死を知っているかどうか、それは問題ではないはずです。それよりも大人の嫌なことを子どもがすることを防ぐために、子どもに死を知って欲しい、命の大切さを知って欲しい、その結果、命に関するような大人の嫌なことを子どもにやって欲しくないという意味でしょう。子どもが命に関する大人の嫌なことをしなければ、大人は子どもに死を知って欲しい、命の大切さを知って欲しいとは、思わないと思います。思う必要がないからです。それどころか軍隊のように、相手の死や命を考えていたら成り立たない生き方も大人にはあるのです。これに軍隊の話に対しては異論を言われる方が多いと思います。

私は子どもに死を知識として教える必要がないと思っています。子どもが子どもなりの経験で死を知るのでよいと思います。敢教えるとしたら、実際に動物を飼うことでしれる範囲で十分だと思います。私に言わせれば、子どもに死を教えるよりも、大人が子どもの心を子どもの立場で知ることの方が遙かに大切だと思います。大人は子どもの心を忘れています。それでいて大人は子どもの心を知っているつもりです。大人は子どもの心を知らないのに、知っているつもりで子どもに関わり、子どもの心を傷つけています。その心を傷つけられて辛くて生きるか死ぬかの間際にある子どもが、命に関する大人の嫌がることを無意識にやってしまっています。
【2005/04/17 18:47】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

理屈と体験

>私の指導の基本的考え方は「理屈より体験すること」と言われた指導者の方がいます。子どもに関しては、ここが子どもの特徴の一つだと、思うのです。そして現在の学校の先生方や教育学者が気づいていないことなのです。

それは、前述の指導者の言葉を使って言うなら、
「子どもは、理屈を体験にはできないが、体験は理屈にできる」
と、言うことです。勿論例外や、完璧に成立するわけではないですが、基本的にはまず間違いありません。

武道で言うなら、練習から、武道のやり方は言葉にできても、言葉だけで教わったことから、武道を行えないという意味です。

ただし、武道の場合、楽しんで武道を行う場合が多いです。そのようなときには情動が安定していて、ストレス刺激が全くないときには、言葉からその言葉の意味する体の動き方を過去の経験から思い出して、実際の体の動かし方を直に指導されなくても、練習をしなくても、言葉通りの動きができる場合があります。

これは、学校教育においてはとても大切なことです。学校教育とは体躯や音楽、図工、家庭科など、実際に体験する時間もあります。けれど、言葉だけで教えられる時間も多いです。国語算数理科社会、言葉で教えられた知識は、言葉だけで答えればよいテストなどには役立ちますが、子どもの実生活には子どもの知識からは役立たないのです。大人になって知識から動けるようになってはじめて、学校で習った知識が実生活で役立つようになります。

校長先生の訓辞、先生のお説教、道徳の時間、命の尊さを教える、これらはすべて知識であり、例え子ども達がその知識を身につけたとしても、質問されればその知識に沿って答えられますが、実生活でその知識を利用することができないのです。

子ども達は教えられたことを実生活で利用できなければ、その知識を用いなければならなくなった状況下で、子ども達はその知識を用いた行動ができません。その結果大人達から、その子どもは非難される、叱られることになります。それは新たにそのような知識を取り込む意欲を奪い去ります。

いくら校長先生が良い訓辞をしても、先生がいくら良い説教をしても、道徳の時間にいくら良い道徳を教えても、子ども達は上の空になっていきます。

子ども達が子ども達の時期に行動して欲しい行動の仕方は、知識で教えるのではなくて、練習で教える必要があります。

是非、このMSGを見られた人は、このことを覚えておいて、実行してください。そうすればそれだけで子ども達との信頼関係ができてきます。
【2005/04/15 18:38】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

虫に残虐な行為をするこども(5)

子どもが虫の足や羽をむしっているのを、ある人が見たとき、
「もし君がその虫と同じようにされたら」
と、子どもに説明して、虫の足や羽をむしる行動を止めようとするする場合です。子どもの立場から言うなら、幼稚園や小学校の低学年では、このような説明を、大人の意味するようには、きっと理解しないでしょう。大人が説明した意味が分からないという意味です。そのときの大人の表情や語調などの雰囲気で、子ども達は自分たちのこの行動について、大人からのやんわりとした禁止、否定と理解します。

小学生の高学年になると、分かる子どもも出てくると思います。けれどやはり多くの子どもは、ほとんど分からないか、言った大人の意味するようにはなかなか理解できないと思います。でも、ぼつぼつ理解する練習が必要だと思います。

中学生ぐらいになると、このような表現を理解して欲しいと思います。それなりの勉強を、経験を積んでないと、中学生でも必ずしもできる物ではないと思います。けれど、中学生なら、分かろうとして欲しいと思います。ただし、私自身、なぜ中学生ぐらいだと、分かろうとして欲しいのか、その根拠は持ち合わせていません。中学生ぐらいになるとどの中学生も、客観的な見方をする練習をして欲しいという意味です。

母親が「もし君がその虫と同じようにされたら」と子どもに言っても、やんわりとした禁止であることは同じです。しかし、子どもにとって、自分の母親自体が大きなご褒美になっていますから、母親というご褒美で子どもの行動を止めるという作用の方が大きくなります。恐怖で子どもの行動を止めるから、ご褒美で子どもの行動を止めるに変わります。ただし、この言葉のようにやんわりとした禁止だと、言葉の意味を理解できない子どもですと、将来の子どもの同じような行動についての抑止力という意味には、ほとんどならないと思います。

母親の場合、それほど遠回しに言わなくても「虫の足や羽を抜くのを止めよう」とはっきり言われても、まだ、母親のご褒美の方が大きくて、子どもは喜んでその行動を止めるし、それ以後も止めようとする抑止力は大きいと思います。

母親が「止めなさい」と怒鳴った場合、子どものこの行為を止めさせる力はとても大きいです。ただし、それ以後の抑止力は、その怒鳴り方によっては、なくなります。
【2005/04/14 19:00】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

虫に残虐な行為をするこども(4)

虫に残酷な行為をする子どもの続きです。

子どもが虫の足や羽をむしっているのを見たとき、ある人は
「私がその現場に居合せた時は、「もし君がその虫と同じようにされたら、そうでなくてもつねったり叩いたりされたらどう感じる?」
と、多少ニッコリ顔でやさしい口調で話しかけると思います。」と答えられました。それもその人なりに正解だと思います。

子どもが虫の足や羽をむしっているのを見たとき、見て見ぬふりをして通り過ぎる人、上記のように優しく注意をする人、怒鳴りつける人など、その対応はその人の経験から、価値観から、大きく違うと思います。その際に、子ども達はどう感じるかを考えてみました。上記の人のように優しく言った場合です。

子ども達に関連のない大人が言った場合ですと、その優しい口調は、子ども達の行為を止める作用がありません。ご褒美の作用もありません。表情などのそのときの雰囲気が恐怖による禁止の作用を示すでしょう。禁止の作用は弱いですから、子どもが虫の足や羽をむしりはじめた理由によって、子どもはその言葉に反応しないで、むしり続ける場合もあります。また、言葉に反応して、止める子どももいるでしょう。そして、それ以後、その子どもは虫の足や羽をむしるかどうかに、大きな影響を与えないでしょう。

子ども達と関連のある大人ですと、子ども達はその大人の背後に母親の姿を見ますから、にっこり顔にご褒美の機能を持ってきます。表情などのそのときの雰囲気の恐怖とのかねあいになると思います。その子どもがなぜ虫の足や羽をむしったかの理由にも寄りますが、概して、ご褒美の機能ー恐怖の機能が接近系ですと、子どもは程度の差はありますが、喜びを感じて止めると思います。それ以後も止める可能性が高くなります。その引き算が恐怖系になると、その場では止めるでしょうが、子どもは大人のいないところで又する可能性が高くなります。

母親ですと、母親のにっこり顔は最高のご褒美です。表情などのそのときの雰囲気からの恐怖の効果は、母親のご褒美にはかないませんから、その機能は接近系となり、子どもは喜んでその行動を止めると思いますし、それ以後もその行為をしなくなります。

学校の先生方は、自分は生徒の母親と同じ機能があると思って子どもに向かい合っている人が多いです。けれど、子ども達は先生の後ろに母親の姿を見て反応しています。母親と同じ事をしても、母親では心が傷つかなくても、先生なら心が傷つく子どもが出てきます。
【2005/04/13 19:07】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

虫に残虐な行為をするこども(2)

ごくまれに、子どもの知識を増やすために虫の足や羽を引き抜いている子どもがいます。子どもとしての好奇心からです。それは例え虫にとってかわいそうなことでも、その子どもにとってはとても大切なことです。また、このような子どもは、必要なければ、虫の足や羽を抜かないという事実もあります。

最後に虫の足や羽を引き抜くことを防ぐ、もっとも基本的で、深い問題があります。それは、その場面になったら間に合わないことですが、そして多くの日本の家庭ではすでになされていることですが、おもちゃやぬいぐるみを壊れたときにどうするかという問題です。その壊れたおもちゃやぬいぐるみを、親がどうするかということと密接な関係があります。

赤ちゃんの時からの親の対応が、子どものこの問題に関係しているという意味です。壊れたおもちゃやぬいぐるみを直して、またそのおもちゃやぬいぐるみを元に戻すことに親が喜びを感じていると、子どもも同じ喜びを情動に持つことになり、子どもが大きくなったとき、積極的に虫の足や羽を引き抜かないでしょうし、たまたま偶然に虫の足や羽を引き抜いたとき、子どもはそれ以上のことを止めてしまいます。

終わり
【2005/04/12 20:37】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

虫に残虐な行為をするこども(2)

この言葉で、子どもはその大人の前では虫の足や羽を引き抜くのを止めるでしょうが、罰の雰囲気を感じていますから、その場所から逃げ出そうとすると思います。状況次第では、又別のところで、虫の足や羽を引き抜く行動をすると思います。つまり「もし君がその虫と同じようにされたら」という言葉を子どもが聞いたときには、「こら!そんなことをしたらいけない!」と言うことを、遠回しに、オブラートをかけて言っただけで、子どもの行動を否定していることには、変わりはないからです。

子どもが虫の足や羽を引き抜くのには、それなりの意味があります。一つめは、たまたま、虫の足や羽を引っ張ったという、子どもとしての偶然の行動です。二つめは虫を破壊することで、子どもの辛さを解消している場合です。三つ目は、虫の体の構造に興味を持って、その子どもなりに、虫の体の構想を知ろうとしている場合です。

たまたま、虫の足や羽を引っ張って、足や羽を抜いてしまった場合です。大人ではばからしいから直ぐに止めて、その虫を捨ててしまうと思います。子どもでも多くの場合、直ぐに止めて、虫を捨ててしまうでしょう。けれど、虫の足や羽を抜くという破壊的な行動に興味を持つ(接近系の刺激になってしまう)子どもがいます。そのような子どもは、虫に限らず破壊により、現在の自分の辛い心を解消しようとする子どもです。そのような子どもでは、それ以後も辛くなると虫の足や羽を抜く行動を続けるし、その行動がエスカレートする可能性があります。多くの人がこの場合を心配しています。
【2005/04/11 14:58】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

虫に残虐な行為をするこども(1)

子どもが虫を捕まえて、その足や羽を引き抜いていたとします。そのときあなたはどうしますか?或方はその方がその現場に居合せた時は、「もし君がその虫と同じようにされたら、そうでなくてもつねったり叩いたりされたらどう感じる?」と尋ねると思います、と言われました。そうすると、子どもは何かの反応をするでしょうから、その質問に対する子供の反応を見ながら、それから痛いよね、嫌だよねと繋げていくと思うと言われました。

私も基本的には、多くの人ではこれでよいと思います。多くの知的な優しい親はこのようにすると思います。でも、「もし君がその虫と同じようにされたら」という仮定を、どのくらいの年齢になったら、理解できるかという問題があると、私には思われるのです。

もちろん、子どもにもよるでしょうが、かなりの知識を持つようになった子供、知的に成長している子どもでないと、この言葉は理解できないと、私は思われます。なぜかというと、子どもは知識は知識として答えを出せても、その知識から行動するのが大変に難しいからです。知識から行動できるようになるには、よほど情動が安定しているか、思春期を超えなければならないのではないかと思うのです。

ではこの言葉がなぜ子どもの虫の足や羽を引き抜くのを止めさせるかというと、この言葉を大人から言われたとき、子どもはそのときの大人の持つ雰囲気から、自分の行った行動に、感じ方の程度は違っても、罰を感じているからです。一見大人からの説得に、子どもは納得したように見えますが、子どもは大人が示した罰の雰囲気を感じて、その罰への回避行動として、この行動を止めていると、私は判断します。

続く
【2005/04/10 06:15】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

しつけ法について(3)

親の喜びで、子どもの行動を習慣化した場合、恐怖で習慣化した場合と違う行動を、子どもはとります。親の喜びで習慣化された子どもの行動は、その行動が必要な状況下では、親がいなくても子どもはその習慣化した行動のままに、行動します。それはまるで、親の愛情の糸で子どもが操り人形のように操作されているような形です。親の喜びで習慣化された行動を行うことで、子どもは喜びを感じているかのように行動をします。

その習慣化した行動も、習慣化した行動の形式そのままになされますが、その習慣化した行動の過程で別の行動が必要になったときには、その必要に応じた、別の習慣化した行動が選択されて、行われます。つまり応用性があるという意味です。しかし、今までの習慣化した行動の過程で別の行動が必要になっても、その必要に応じた別の習慣化した行動を持ち合わせていないときには、その子どもなりの記憶の中に、必要な行動を探すこともできます。

大人が、親や監視する人のいない状況下での、子どもの素行の悪さを批判する場合があります。それは、そのような行動をする子どもが問題だと、常識的には考えられますが、子どもは好きこのんで素行の悪い行動をしているのではありません。そのような子どもは、家庭や学校で、恐怖からの行動の習慣化を受けていたのです。そのような意味では無知な大人(少なくとも学校の先生はそのことを知るべきです)の被害者と言えるのではないでしょうか?

終わり
【2005/04/08 19:28】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

しつけ法について(2)

親のいないところでの子どもの行動は、刺激に素直に行動します。状況にその子どもなりの反応をします。それは親にとって好ましい場合と、好ましくない場合があります。親にとって好ましくない場合を親が想定して、子どもにあらかじめ行動の仕方を教え込もうとします。それがしつけの多くの部分を占めていると思います。その意味では親の不安からの子どもへの対応、教育、とでも言えるのでしょうか?

子どもを親の思うように動かす(動かすという言葉にはいろいろと問題がありますが)のに、恐怖を用いた場合です。大人では恐怖を用いても繰り返すことで習慣化して、恐怖がない条件下でも、その習慣化した行動を取ることができます。ところが子どもでは、習慣化した行動に恐怖が一緒に存在しないと、子どもはその習慣化した行動を取りません。恐怖がないとその習慣化した行動を途中で止めてしまうか、全くしない場合もあります。

ストレス状態にある子どもでは、恐怖がともなわっていない場合、その習慣化した行動を取らないで、その逆な行動を取ってしまう場合があります。つまりそのとき存在するストレス状態からの回避行動として、習慣化した行動の逆をしてしまうのです。習慣化した行動をしたのでは回避行動にならないからだと考えられます。ストレス状態を解消する強い刺激にならないからです。
【2005/04/07 18:35】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

しつけ法について(1)

親の立場から見たら、親の希望する方向に子どもが動いて欲しいものです。特に親にとって、子どもが犯罪や事件や事故に巻き込まれたくないものです。親の表現では、それは子どもを守りたいからと言うことになりますが、親の立場(本心)から言うなら、親にとって都合が悪いからと言うことになります。そして、目の前の子どもが親の希望する様な行動をしないときには、子どもに親の希望するような行動を求めることになります。

子どもに、現実の子どもの行動とは異なって、親の希望する行動をさせる方法には、二つあります。一つは、子どもにご褒美をあげることで、子どもに親の希望する行動をさせる場合と、もう一つは、子どもを罰することで、子どもに親の希望する行動をさせる場合です。実際の多くの親は、後者の子どもを罰することで、子どもに親の希望する行動をさせようとします。

子どもは親に対して弱い立場にありますから、親から叱られると(罰をちらつかされると、それは親からの恐怖刺激になっている)、親からの罰を回避するために、親の言うことに従います。それは子どもが親について納得したのではなくて、単に罰を回避するための行動です。

また、親の喜びは子どもにとってとても大きなご褒美になりますから、親が喜ぶということで、子どもに親の希望する行動を取らせることも可能です。良くほめて子どもに行動させるという場合がありますが、それも良い方法ですが、そのほめ言葉の裏には、親がその結果として嬉しいという意味を含んでいます。
【2005/04/06 11:41】 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0) |

恐怖の学習

恐怖には生得的な恐怖と、学習した恐怖があります。人間の場合、生得的な恐怖としては、痛みと強すぎる感覚、欲求不満があります。それ以外は全て学習した恐怖と考えられます。これに関しては、議論が多いところですが、ほぼ間違いないでしょう。痛みと強すぎる感覚が恐怖刺激であることは、経験から全ての人が感じているところです。

痛みと強すぎる感覚とは、大脳新皮質に関係ないようです。多分視床から直に大脳辺縁系扁桃体に情報が送られていると考えられます。その痛みや強すぎる感覚ですら、条件反射で恐怖でなくすることもできます。

欲求不満自体は生得的な恐怖ですが、具体的な刺激の内容は学習によって異なります。習慣や慣れと言う状態が途絶したときに生じます。ただし、多くの人はこの欲求不満が恐怖であることに気づいていないようです。欲求不満は欲求不満、恐怖とは異なると感じている人が多いです。けれど脳科学的には、人の認識はどうであれ、脳のレベルから言うなら、欲求不満は恐怖と同じ物です。恐怖を起こす原因が痛みや強すぎる感覚でないという事実だけです。

その他の恐怖は、痛みや強すぎる感覚、欲求不満から、恐怖の条件付けという形で学習しています。たとえば刃物が恐怖になる人は、刃物で痛みやその他の辛い経験をしたから、刃物が恐怖の条件刺激になっています。あの人が恐怖だという場合には、あの人から暴力などの痛みなどの恐怖を受けたことから、あの人が恐怖の条件刺激になっています。

その他の恐怖の中には、痛みや強すぎる感覚、欲求不満から、恐怖の条件付けという形で学習した恐怖の条件刺激を、改めて経験した際に、新たに恐怖の条件付けという形で学習した物があります。この場合には直に恐怖経験の記憶と関係していないために、なぜ恐怖を感じるのかわからないものです。それどころか恐怖を感じていても、その恐怖に気づかない場合も多いです。自分の性格が変だ、病気だと感じてしまう場合が多いです。
【2005/04/05 18:54】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

格闘技の放送と幼い子ども(2)

類人猿を含めて、他の哺乳類の子どもの成長を見ていく限り、子どもたちの遊びの中に格闘(技)の要素がかいま見られています。遊びの楽しみとして格闘技に接近系の刺激が確立した子どもは、積極的に格闘技を見るようになります。それは情動の記憶ではなくて、知識としての記憶になります。知識としての記憶ですから、知識として格闘技を制御する物を得られたなら、無理なくその知識から格闘技を現実に行う制御が出来ます。

「三つ子の魂百まで」と子どもの本心を形成するのは情動(大脳辺縁系)であり、知識(大脳新皮質)ではありません。情動が確立するまで、母親と良い関係があったなら、母親の感受性が子どもに受け継がれ、後は子どもの成長に任せればよいのであり、子どもは成長とともに、格闘技は格闘技として、制御しながら、格闘技をその子どもなりに利用していくと思います。

格闘技と書くと何か特別な物と言う意味に成りますが、格闘技の要素は生活の中に必要な物です。それを身につけているといないとでは、生きる生き方まで変えてしまいます。現在の日本では格闘技の要素を身につけなくても生きていけると思います。その代わり、生きてい条件が大変に狭まれてしまいます。荒々しい格闘技は別にして、生きていくために必要な格闘技の要素は、体を動かすのが喜びである子どもの内に身につけさせてあげるのが、生物としての人間には必要だと、判断されます。

終わり
【2005/04/04 18:24】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

格闘技の放送と幼い子ども

最近2,3歳児の子供に対するテレビの影響はあるのか?という話題がありました。子どもの知識の獲得、経験という意味でも、子どもには子どもの周囲にある物全てが、程度の差はあっても、子どもに影響を与えます。

脳の形成期である2,3歳児の時期にそういうものを見せると残虐性に対する抵抗が低くなるのでは?という話題を提出した人がいます。「2,3歳ぐらいまで」の子どもは脳の内でも大脳辺縁系が確立してくる時期です。その時期は主として母親から、母親の感じ方を受け入れてきます。その際にテレビがどのように影響するのか、推測の域です。多分影響があるでしょうが、テレビは母親が見せたいものを子どもが見るでしょうから、その際に残虐性のある番組を見せなければ、残虐性については問題ないでしょう。

「2,3歳以後」の子どもは、母親の情動を受け継いで来ていますから、子どもは母親の情動にあうような番組を見たがると思います。母親が格闘技を好まなければ、子どもは積極的に格闘技を見ないと思います。父親が格闘技を見ているても、父親が見ることを強いらない限り、この年齢での子どもへの影響は、脳内に記憶として残ることは、無視できるぐらいに少ないと思います。その理由は、情動の裏付け(喜びから)から格闘技を学習しないこと。5,6歳ぐらいまでは知識の記憶に関する脳が、未だ完全に完成していないから、たまに経験したことに関して大人ほどに記憶が十分に出来ないからです。
【2005/04/03 05:43】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

身体的にハンディキャップのある人の脳(最終回)

 その克服しようとする努力、エネルギーを阻害しない限り、子どもはその子どもなりに、辛い学習に耐えて(母親に支えられている必要がある)、その子どもなりに自分のハンディキャップを克服していきます。そのハンディキャップの克服に大きな喜びを感じるようになっています。それは多くのハンディキャップのある子ども達について、決して偉大なこととは認められませんが(中には周囲からすばらしいと賞賛される場合もある)、ハンディキャップの無い子どもと比べようのないぐらいにすばらしい能力を持ってきている場合があります。そして中には結果として、社会から賞賛されるようなことをやってのける人も、そのような子ども達の中から出てきています。

 ハンディキャップを克服する学習は大変に辛いものです。辛いから、他の人からハンディキャップを補って貰うと、ハンディキャップを克服しようとする必要がなくなり、ハンディキャップを克服する学習を止めてしまいます。ハンディキャップのある子どもが大人になって死ぬまでそのハンディキャップを補う対応を受けられるのなら、それはそれなりに意味があり、ハンディキャップのある子どもにはありがたいことです。しかし、一時的なハンディキャップの補いなら、それは子どもにとってとても辛い結果をもたらします。ハンディキャップを補って貰い、それに依存してしまえばしまうほど、ハンディキャップを補って貰うことがなくなったときには、子どもはひどい葛藤状態になってしまいます。

 どういう時が一時的かというと、それは他人からは判断できません。そのハンディキャップのある子どもが一時的と判断できるときが一時的であり、その子どもがそれが普通だと判断したときには、ハンディキャップのある子どもはそれに依存してしまいます。正確に言うなら、ハンディキャップのある子どもは、ハンディキャップを補って貰った当初は、潜在意識で一時的として反応していき、ハンディキャップを補って貰う頻度が多くなればなるほど、潜在意識で依存をしていきます。そして最終的には依存を生じて、自分からハンディキャップを克服しようとはしなくなります。
【2005/04/01 15:14】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

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