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登校拒否の部屋
登校拒否、不登校、引きこもり、青少年問題を子どもの立場から考えます。 参考 登校拒否研究室 インターネット小児心療内科医院

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発達障害と子どもの立場(3)

子どもが社会に適応できない。それは子どもが悪いのではない。子どもに問題があるのではない。その子どもなりの能力やあり方を、社会が認めないからです。

その社会が認めないから子どもが苦しむのを、親が守りきれないからと言って、子どもを病気だとして、一時の親の安心感を得るなら、それは子どもにとって大変に不幸なことだと思います。問題の転化だからです。

子どもがなぜ苦しむのか、その本質を見ないで、架空の病気で誤魔化してしまう。誤魔化したときには一時の親の安心感はあっても、それから後は架空の病気との闘いとなるわけです。架空の病気にされた子どもも気の毒ですが、架空の病気を信じ込んだ親も、その後に続く解決のない、今までとは別の苦しみと付き合わなければならないのです。

終わり
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【2005/06/30 21:47】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

発達障害と子どもの立場(2)

大人は子どものためと考えて、辛い状態の子どもを、現在の社会にうまく適応できない子どもを、救おうとします。

辛い状態の子どもの辛さを解決するためにと、大人は考えていますが、子どもに無理な要求をするから子どもが辛くなっているのであり、子どもに無理な要求をしなければ子どもは辛くないのです。もし、辛い子どもをその辛さから救うなら、子どもに無理な要求をしなければよいのです。

大人の勝手な、先回りした心配から、子どもに無理な要求をして、そのために辛くなった子どもを、救おうと言って、無理な要求を止めないで、子どもに新たな要求と手助けをしています。それは決して子どもの求めている物ではないのです。

社会にうまく適応できない子どもの問題を解決するためにと、大人は考えていますが、子どもにまだ適応する能力のない状態なのに、適応しろと無理な要求をするから子どもが辛くなっているのであり、子どもに能力以上の無理な要求をしなければ子どもは辛くないのです。

もし、社会にうまく適応できない子どもをその辛さから救うなら、子どもが社会にうまく適応できるようになるまで、待って上げて、子どもに無理な要求をしなければよいのです。

大人の勝手な、先回りした心配から、子どもに、その子どもにそぐわない適応の仕方を求めて、無理な要求をして、そのために辛くなった子どもを、救おうと言って、支援と言って、無理な要求を止めないで、子どもに新たな要求と手助けをしています。それは決して子どもの求めている物ではないのです。
【2005/06/29 21:57】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

発達障害と子どもの立場

子どもにとって、この世に生まれ落ちて、守ってくれる親を無条件で信じようとします。子どもが社会と関わるようになると、子どもはその子どもなりに社会と関わろうとします。それが親やその他の大人達に受け入れられないからと言って、病気扱いされたら、子どもにとって本当に悲しいことです。無条件で信じたい親を信じるわけにはいきません。

子どもが社会と関わって困るのは、社会がその子どもなりを認めないからです。子どもに責任があるのではありません。認められなければ、子どもは認められる家庭に帰ってきます。家庭で能力を高めて改めて社会に挑戦して社会とその子どもなりに関わろうとします。

子どもが社会とうまく関われないから、支援という名で手助けをしても、その支援がある限りに置いては社会と親やその他の大人の求める形で関われるでしょうが、支援が無くなると多くの場合、又元の木阿弥に戻ってしまいます。多く場合、支援に依存してしまった子どもは、支援が無くなると、支援が得られなかったときよりもっと辛い状態になります。

続く
【2005/06/28 20:33】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

発達障害と親の立場

親の立場から言うなら、子どもが学校や社会の中で苦しんでいる原因が病気だと分かると、病気が問題であり、学校も社会も、そして親も(親は元々悪くはないのですが、親の周囲から親の子育てが悪いと、責められている)、悪くはないと言うことになります。ただし、本当に病気が子どもにあったの場合です。

子どもが病気のように見えても、学校や社会から子どもが苦しめられて、その結果病的な症状を出しているとしたら、どうでしょうか?実際は、子どもには病気はなくて、子どもを受け入れない社会から、その子どもが責められて、責められた子ども達が症状を出しています。学校や社会に逆らっています。それらは子どもが、社会や学校が違うよというサインなのです。

所謂発達障害という物は科学的には存在しません。学校や社会で苦しめられている子どもが症状を出したり、学校や社会が違うよと言うサインを出しているのに、それを病気と親や大人が理解したなら、子どもは大変に辛いことになります。それに対して、親は病気だとして納得できて、親は楽になるでしょう。

ただ、現時点で親が楽になっても、その後、今度は病気の治療が行われます。それは子どもを否定することになり、ますます子どもはいろいろな症状を出すことになります。それは又親を苦しめることになります。親にとって一時に安心感のために、病気でない子どもを病気にしてしまいます。子どもも必要ない治療を受けることから、とても辛くなります。
【2005/06/27 20:51】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

発達障害について(2)

「早期に発達支援をすることが重要」という部分です。私が対応する限り、早期に子どもに支援という形で働きかけると、かえって子どもが苦しくなっています。問題を難しくしています。私のような現場の医者には、早期に支援という根拠が全く分かりません。どのような根拠から、このような判断がされたのか疑問を感じています。所謂専門家という人たちの意見から、このような表現になったのでしょうが、子どもに沿って長期に見ている現場の医者として、これは違うように思われます。

「「発達障害」とは・・脳機能の障害であって 」と、法律はなっていますが、現在まで発達障害と言われてきた子どもで、脳機能の障害と客観的に見つかった子どもはいません。脳機能の変化は見られている場合もありますが、それは生理的な変化であり、脳の機能障害と決めつけることは不可能です。私たち心療内科の医師から見たら、根拠が疑問だらけです。このまだ、はっきりと診断できない、対応法も確定していない、発達障害の子ども達に、法律で一律に義務づけ、関わろうとすることに、問題点を感じています。

終わり
【2005/06/26 21:12】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

発達障害について(1)

私は診療内科医として、地域の子どもの問題も対応しています。最近発達障害の相談が増えてきています。それらの子ども達の問題に対応しながら、疑問を感じることがいくつかありますので是非、聞いていただきたいと思います。

発達障害者支援法に関してです。発達障害者と診断された子ども達の中に、発達障害者でない子ども達が多く含まれているという事実です。私の所に発達障害者として相談に来た子ども達は全て発達障害者ではありませんでした。
どうも学校や医者で発達障害者という診断が安易に付けられている可能性が高いです。親や学校や医者の都合で発達障害者と、安易に診断されている可能性が高いです。

発達障害者支援者法では、「発達障害の症状の発現後できるだけ早期に発達支援を行うことが特に重要」となっているために、子ども自身の問題やあり方が無視されているようです。早期に診断を付けることが先行して、子どもの人権が無視されているように感じられます。子どもの人権が守られることを優先して欲しいと願うのは、私だけでしょうか?
【2005/06/24 16:44】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

支援とは

学校の勉強や運動などができない子どもについて、できるようになるために、誰かが手を貸す必要があると、常識的には考えられます。確かに、元気な子どもに関しては、当てはまります。

ところが辛状態にある子どもでは、自分で克服することに意味があります。辛い状態の人が困難に直面しているとき、誰かの手を借りると、手を借りたという条件下での克服になります。誰かの手を借りないとそれまで克服したことができなくなります。確かに誰かの手を借りるとできるのですが、誰かの手を借りない状態では、できないという意味です。辛い状態の子どもには、現在の常識が通じないです。

その子どもができなかったことを、手助けするというような支援の実施で、克服できたとしても、辛い状態の子どもには、発展性がありません。それ以上能力を伸ばすことができません。それは、元気な子どもが手助けというような支援を受けて、どんどんのびていくのと、異なっています。

辛い状態の子どもの場合の支援とは、手助けするのではなくて、自分で克服するのを待って上げるという意味です。自分で自分の問題点を安心して克服する努力を続けられる環境を作って上げることでしょう。

そのような意味で、元気な子どもへの支援とは現在の様な支援の考え方でよいですが、辛い状態の子どもを支援する場合には、支援という概念を、大人の側で変える必要があります。
【2005/06/23 14:47】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

接近系

感情には嬉しい、悲しい、怖いなど、いろいろと表現される状態があります。その感情の大本を情動と言います。情動が体に表現された物を、感情と言います。その情動には、受けた刺激を求めようとする接近系と、受けた刺激から逃げ出そうとする回避系とがあります。

受けた刺激を求めようとするとき、その時の環境と体の反応との関係で、嬉しい、楽しい、わくわくするとかと言うような表現される感情として理解されます。そのように刺激を求めるように情動反応を起こさせる刺激を、接近系の刺激、と、言います。たとえばお魚を食べることが好きな人は、お魚料理は接近系の刺激です。お魚が苦手な人には、お魚料理は接近系の刺激ではありません。

このように、同じ刺激でも、人によって情動反応は違う、刺激も接近系の刺激になったり、接近系の刺激で無かったり=回避系の刺激、してしまいます。

多くの小中学生について、学校は友達を与えてくれるところ、新しい興味を与えるところであり、接近系の刺激です。また、学校の先生方も、不登校を研究している人たちも、政府も、学校が接近系の刺激であることを疑っていません。

けれど、登校拒否、不登校の子ども達にとって、学校が、接近系ではない刺激=回避系の刺激、になっています。先生方や不登校を研究している人や、政府も、学校が、登校拒否、不登校の子ども達には回避系の刺激になっていることに気づいていません。
【2005/06/22 20:58】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

家庭学習の勧め

 不登校引きこもりの子ども達の対応をしていて、どうしても気づいて欲しいことがあります。不登校、引きこもりの子ども達は、家の外に出ることが困難な子どもが多いです。家の外に出ることができても、学校やその他の学校に相当する公共の機関に行くのが大変に難しいです。それらに行かすための努力を、勉強に向けさせて上げるなら、不登校や引きこもりの子ども達は、もっと実力を付けられて、自信を持つことで、逆に学校や学校に相当する公共の機関に行けるようになっています。
 教育とは学校や学校に相当する公共の機関に行かすことが目的ではないはずです。家庭でも十分に教育は可能ですし、すでに通信教育、ホームスクーリングなど、家庭での勉学が可能になっています。その際に子ども達を挫折させていることは、スクーリングという形で、学校や学校に相当する公共機関に出席しなければならないことです。
 子ども達は元気になれば、自信がつけば、自分から学校に戻っています。無理に学校や学校に相当する公共機関に出席させるのではなく、出席できるように待って上げるのも、教育者として大切なことではないかと思います。それは不登校、引きこもりの子ども達の心を守りながら、それらの子ども達の学習を保証する方法として、最も優れた方法であると、医者の立場から、医者の実績から、申し上げたいと思います。また、不登校、引きこもりの子ども達の心を守ることで、ニートと言われるような大人を減少させる効果もあります。
【2005/06/21 20:31】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

他の人と違っていて良い

子どもの成長について、本当の意味で納得のいく成長をするためには、人と違っていたり劣っていたりする部分をうまく矯正できる専門家が必要だと、主張する人がいました。

私は、他の人と違っていて良いし、劣っていても良いと思います。その違いや劣っている部分を、他の人が無理矢理に矯正しようとするから、子ども達が苦しくなります。

人と違っている生き方を認め、劣っているところがある生き方を認めると、子どもはその子どもなりに、それらの問題をその子どもが納得するように、解決しようとします。

いくら専門家といえども、それは他人ではできないことです。他人でできることは、子どもの違っていること、劣っていることを、それでよいと認めて上げることだと思います。

ただし元気な子どもには、そのようなことを考える必要がありません。他の人と違っていたり、劣っていたりして、辛い状態にある子どもについて、このことは当てはまります。
【2005/06/20 19:29】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

待って上げる

子どもは、その子どもなりに、自分にあった生き方が見つかったなら、その子どもなりにエネルギーを貯めて、その子どもなりに問題を解決していきます。それがその子どもの幸せだと考えられます。

その子どもなりに、自分に合った生き方とは、所謂専門家が教えることはできません。その子どもがその子どもなりに見つけるしかないのです。他の子どもと同じ環境の中で、その子どもなりに見つけることを認める、見つけるまで待って上げるのが、親として一番良いのです。
【2005/06/19 21:49】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの要求

子どもの立場から言うなら、子どもは大人と違って、受けた刺激に素直に反応します。何か必要とする物の刺激を受けたから、必要性を感じて(親はわがままだというが)強く要求したのです。それが満たされると、必要性がなくなりますから、その時点での強い要求はなくなります。また、何か子どもが必要と感じる物の刺激があるところに行かない限り、刺激に出くわさない限り、子どもは強い要求をしません。

子どもの要求がエスカレートするのには、それなりの理由があるはずです。それを考慮しないで、ただ単に要求がエスカレートという目の前の現象だけで、子どもを判断したら、子どもとの信頼関係を失います。

親が周囲の目を気にして、子どもが泣き叫ぶ前に買い与える、泣き叫ぶ子どもに物を買い与える姿を見ることがあります。それは親の都合で買い与えることであり、子どもの要求をかなえようとする、子どもの心を見つめた対応ではないのです。
きっとそのような親は、自分が子どもにとって最高のご褒美だと言うことを知らないのだと思います。子どもがいくら強くほしがっても、母親の愛情以上にほしがる物ではないということです。
【2005/06/18 20:40】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

先生の背後に

子ども達に関連のない大人ですと、優しい口調で子どもに或行為を止めさせようとすることは、子ども達の行為を止める作用がありません。ご褒美の作用もありません。表情などのそのときの雰囲気が恐怖による禁止の作用を示すでしょう。

子ども達と関連のある大人ですと、子ども達はその大人の背後に母親の姿を見ますから、にっこり顔にご褒美の機能を持ってきます。想像する母親の笑顔のプラス方向と、表情などのそのときの雰囲気の恐怖のマイナス方向との足し算になると思います。

母親ですと、母親のにっこり顔は最高のご褒美です。大きなプラス方向の動機になります。表情などのそのときの雰囲気からの恐怖のマイナス方向の動機との足し算は、大きく接近系(プラス)となり、子どもは喜んでその行動を止めると思いますし、それ以後もその行為をしなくなります。

学校の女性の先生方は、自分は生徒の母親と同じ機能があると思って子どもに向かい合っている人が多いです。確かに先生自身の子どもに対しては、強力な接近系の存在ですが、学校の子ども達にとっては、他人です。母親の機能はありません。けれど、子ども達は先生の後ろに母親の姿を見て反応しています。学校の先生が母親と同じ事をしても、母親では心が傷つかなくても、先生なら心が傷つく子どもが出てきます。
【2005/06/17 18:52】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

ある行為を止めさせる

子どもにある行為を止めさせるとき、子どもにいろいろと説明しても、幼稚園や小学校の低学年では、大人の意味するように子どもは理解しないでしょう。そのときの大人の表情や語調などの雰囲気から、子どもはその行為について、してはいけないと理解します。程度の差はありますが、その行為をすると大人から恐怖を与えられると記憶されます。その行為を禁止する大人が居ないと、その行為を子どもはやってしまいます。

それは母親が言っても同じですが、母親自身が子どもにとって大きなご褒美になっていますから、母親というご褒美で子どもの行動を止めるという作用に変わります。ただ、この言葉だと、言葉の意味を理解できない子どもですと、将来の子どもへの抑止力という意味では、ほとんど無いと思います。

母親の場合、いろいろと子どもに説明しなくても、「なになにするのを止めなさい」とはっきり言っても、子どもにとって、まだ、母親のご褒美の方が大きくて、子どもは喜んでその行動を止めるし、それ以後も止めようとする抑止力は大きいと思います。

母親が「止めなさい」と怒鳴った場合、子どものこの行為を止めさせる力はとても大きいです。ただし、それ以後の抑止力は、その怒鳴り方によっては、なくなります。 母親のご褒美より、恐怖の方が大きくなった場合です。

【2005/06/16 16:45】 不登校 | トラックバック(1) | コメント(0) |

知識と行動

子どもに関しては、「理屈より体験すること」が、子どもの特徴の一つだと思うのです。そして現在の学校の先生方や教育学者が気づいていないことなのです。

「子どもは、理屈を体験にはできないが、体験は理屈にできる」と、言うことです。勿論例外や、完璧に成立するわけではないですが、基本的にはまず間違いありません。

スポーツで言うなら、スポーツのやり方は言葉にできても、言葉だけで教わったことから、スポーツを行えないという意味です。

ただし、スポーツの場合、楽しんでスポーツを行う場合が多いです。そのようなときには情動が安定していて、ストレス刺激が全くないときには、言葉からその言葉の意味する体の動き方を過去の経験から思い出して、実際の体の動かし方を直に指導されなくても、練習をしなくても、言葉通りの動きができる場合があります。

これは、学校教育においてはとても大切なことです。学校教育とは体育や音楽、図工、家庭科など、実際に体験する時間もあります。けれど、言葉だけで教えられる時間も多いです。国語算数理科社会、言葉で教えられた知識は、言葉だけで答えればよいテストなどには役立ちますが、子どもの実生活には子どもの知識からは役立たないのです。大人になって知識から動けるようになってはじめて、学校で習った知識が実生活で役立つようになります。

校長先生の訓辞、先生のお説教、道徳の時間、命の尊さを教える、これらはすべて知識であり、例え子ども達がその知識を身につけたとしても、質問されればその知識に沿って答えられますが、実生活でその知識を利用することができないのです。

子ども達は教えられたことを実生活で利用できなければ、その知識を用いなければならなくなった状況下で、子ども達はその知識を用いた行動ができません。その結果大人達から、その子どもは非難される、叱られることになります。それは新たにそのような知識を取り込む意欲を奪い去ります。

いくら校長先生が良い訓辞をしても、先生がいくら良い説教をしても、道徳の時間にいくら良い道徳を教えても、子ども達は上の空になっていきます。

子ども達が子ども達の時期に行動して欲しい行動の仕方は、知識で教えるのではなくて、練習で教える必要があります。

是非、このMSGを見られた人は、このことを覚えておいて、実行してください。そうすればそれだけで子ども達との信頼関係ができてきます。
【2005/06/15 20:02】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

子どもの持つ死の概念

大人の立場から言うなら、子どもが死の概念を身につけてくれて、人間の死に繋がるようなことをしないで欲しいものです。子どもの立場から言うなら、大人と同じような死の概念を大人と同じように理解するには、やはり大人にならなければ無理だと思います。勿論子どもはその子どもなりの死の概念を持っています。その概念は大人から見たら笑ってしまうものから、大人とほぼ同じものを持っている場合もあります。

子どもは知識としては、教えれば死の概念を持つことができますが、それが行動に反映され出すには大人にならなければなりません。子どもが死とはこのような物だと言葉で大人の希望するようなことを言ったとしても、その言葉通りに死に対して対応できるかというと、それは特別な場合を除いてできないです。つまり、子どもの試験と同じで、ペーパーテストでは正解をかけても、子どもはその内容に沿って行動できないというのと、同じようなことです。子どもは死を知らなくても、生きていけるし、成長もできるからです。

なぜ大人が、子どもに死を知って欲しいかと言うことを考えてみてください。大人にとって子どもが死を知っているかどうか、それは問題ではないはずです。それよりも大人の嫌なことを子どもがすることを防ぐために、子どもに死を知って欲しい、命の大切さを知って欲しい、その結果、命に関するような大人の嫌なことを子どもにやって欲しくないという意味でしょう。子どもが命に関する大人の嫌なことをしなければ、大人は子どもに死を知って欲しい、命の大切さを知って欲しいとは、思わないと思います。思う必要がないからです。それどころか軍隊のように、相手の死や命を考えていたら成り立たない生き方も大人にはあるのです。これに軍隊の話に対しては異論を言われる方が多いと思います。

私は子どもに死を知識として教える必要がないと思っています。子どもが子どもなりの経験で死を知るのでよいと思います。敢教えるとしたら、動物を飼うことでしれる範囲で十分だと思います。私に言わせれば、子どもに死を教えるよりも、大人が子どもの心を子どもの立場で知ることの方が遙かに大切だと思います。大人は子どもの心を忘れています。それでいて大人は子どもの心を知っているつもりです。大人は子どもの心を知らないのに、知っているつもりで子どもに関わり、子どもの心を傷つけています。その心を傷つけられて辛くて生きるか死ぬかの間際にある子どもが、命に関する大人の嫌がることを無意識にやってしまっています。
【2005/06/14 15:30】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

親の影響(5)

結論

子供の自我に関して、感情としてとらえられる部分は、基本的に、母親を通して、日本文化を受け入れて、2,3歳で急激に完成している。

その後の(親を通しての)感情経験から、学習から、その表現はとぎすまされたり、修正されていく。感情としてとらえられる部分の自我が完成すると、子供はその完成した自分の自我で行動しようとする。それが親や周囲の大人の反応の仕方と違うときには、親や周囲の大人は子供が自我を発揮していると感じる。

他方、感情が壊されたとしてとらえられる部分は、恐怖の条件反射の学習として、生じてくる。

子供の自我に関して、知的としてとらえられる部分は、感情としてとらえられる部分の後から、できあがってくる。

幼い子供が、その子供の経験から、学習から、最初に作り上げる概念は操作記憶である。

陳述記憶が可能になる小学生ぐらいになると、子供の経験から、学習から、作り上げる概念は陳述記憶の物の割合が増えてくる。

小学生の後半ぐらいから、複数の概念を組み合わせて新しい概念を作ることが可能になってくる(=思考が可能になってくる)。

子供は操作記憶の概念から行動することは可能であるが、概念を組み合わせた新しい概念(思考)から行動することは大変に難しい。
【2005/06/13 19:12】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

親の影響(4)

幼児期になると、子どもの感情に関する能力は大人と同じように確立しています。基本的な感情の反応の仕方(大脳辺縁系の機能)は決まっていますが、感情に関する情報処理の脳(大脳新皮質連合野)の発達により、より細かく条件分けされて、より細かい条件下での反応の形になります。その動機はまねであり、まねの繰り返しです。芸術的な能力はこの時期に基本的な物ができあがっていきます。言葉や表情、雰囲気に関する反応は、このような形の反応で始まっています。刺激に対して、感情の表現としての操作記憶が、強化されていきます。類人猿の脳の機能に相当します。

子どもにより若干異なりますが、遅くとも5,6歳になり、陳述記憶が可能になってくると、言葉や文字と陳述記憶や操作記憶との関連ができあがっていきます。概念が成立してきます。概念を表現する言葉ができあがってきます。言葉による情報交換が可能になり、完成していきます。表象からできあがった単純な言葉や文字から、単純な概念を持ったり、概念を利用して、単純な陳述記憶や操作記憶を呼び起こして、行動するようになります。しかし全体としては感情的な反応が多くを占めています。

小学生段階になると、依然として感情的な反応が多いですが、陳述記憶の発達により、また前頭葉のワーキングエリアの発達により、表象からできあがった単純な言葉や文字から、だんだん複雑な言葉や文字になっていき、単純な概念を組み合わせた複雑な概念が持てるようになっていきます。複雑な概念を利用して、複雑な行動をするようになります。けれどそれはあくまでも過去の経験を思い出して、複雑な行動をするだけであり、決して概念同士を組み合わせて、その概念に沿って、自分で行動の情報を作り上げて、その作り上げた情報から行動するのではありません。
【2005/06/12 20:57】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

親の影響(3)

子どもが自我を出して、親から見たら反抗期に見える時期は、感情に関する能力が確立した時期です。大人と同じ感情の仕組みを持っていることになります。感情に関する能力という意味では大人と対等です。基本的にはもう変えることができないほど、完成しています。その結果時には大人顔負けの感情の反応の仕方、表現をする場合もあります。また、一方では大人より遙かに小さい子どもですから、大人は子どもの感情の反応の仕方も未熟と考えて、無視してしまうことも多いです。その際には、すでにその子どもの自我を否定したことになり、子どもに葛藤状態を生じてしまいます。

子どもの感情の能力、情動を変える方法は、条件反射をつかいますが、現実の生活の中で子どもが条件反射を利用して子どもの感情の反応の仕方を積極的に変える対応を受けることはありません。ところが実生活の中では、子どもは大人からきわめて大きな恐怖を受ける場合があります。大きな恐怖でなくても、恐怖を繰り返し受けることがあります。その際には、子どもは恐怖を生じる条件刺激を学習してしまいます。それは子どもの性格の変化、子どもの心がゆがんだと、周囲の大人が感じられるようになります。

親から見て反抗期を感じる時期を過ぎると、感情に関する能力は、恐怖の条件反射を学習して、子どもの心がゆがんだと感じるような感情の変化しか、現実にはありません。感情の反応の仕方と平行して、子どもは機械的な反応の仕方を学習していきます。これは感情に裏付けされますが、感情とは独立した反応です。繰り返すことで、その反応の仕方は強化されていきます。たとえば手の使い方、歩き方など、いわゆる癖として親が感じる部分の多くがこれに属すると思います。
【2005/06/11 21:50】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

親の影響(2)

胎教という言葉があります。妊娠10ヶ月に近くなると聴覚の領域は完成してきて、音に反応するようになります。その反応の仕方は本能的な物(生得的=動物の反応の仕方と同じはず)です。それは大脳辺縁系で評価されて、中心灰白質で反応の情報を作って、錐体外路を通して体中の筋肉に伝えられて、また自律神経を介して内臓のすべてに送られるはずです(情動反応=感情の表現)。

具体的な記憶はできないでしょうが、使われた神経回路は強化されていくはずです。その結果聞き慣れた音の種類について、より反応しやすくなると考えられます。どのような音が胎児に届いているのかの研究があったと思いますが、手持ちにはありません。

聴覚による学習は出生後、大脳新皮質連合野の発達で、具体的な音の記憶をするようになります。このごろの音の経験の方が遙かに大切だと思います。胎児や乳幼児は、刺激に関してほとんどすべて受け身であり、受けた刺激の種類や量、そしてその刺激を処理する脳神経細胞の量などから、胎児の時受けた刺激の影響より、出生後の方が遙かに大きな機能が脳内で働いているからです。

視覚野が成熟して目が見えるようになると、光に対してはいろいろな生得的な反応があります。それらは光からの情報を取り込もうとする動物としての本能(生得的な機能)です。そしてその生得的な機能から得られた情報は、完成しつつある連合野に記憶されていきます。

基本的な、これから成長するに必要な情報が、蓄えられていきます。その蓄えられた情報を元に、反応することができるようになった能力(多くは生得的な機能)を利用して、反応をはじめるようになります。特に、感情に関する記憶がどんどん蓄えられていって、2,3歳ぐらいまでに、感情に関する基本的な反応の仕方が成立してしまいます。
【2005/06/10 17:05】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

親の影響(1)

親の対応、影響がどれだけ子供に反映するのか、親としても気になります。間違いなく親の存在は子どもの成長にとても大事なことです。そのことについて、何回か書いてみます。

子どもは親の鏡だと言うでしょう。正しいとは言いませんが、これはある意味では正しい部分もあります。つまり子どもが自我を出しだしたときには、すでに子どもは親(この部分が鏡に相当)や子どもの周囲の人の影響を受けて自分の基本を作り上げたと言うことを意味しているからです。

脳の解剖学的な事実を見る限り、子どもは生まれてくるときには、一部の感覚器に相当する領域と一部の運動に相当する領域とを完成してきています。それ以外はまだ脳ができあがってきていないから、ほとんどの部分の脳は生まれ落ちてから完成させていきます。完成させながら情報を記憶していくのですから、例えれば吸い取り紙に水を吸い込ませるように記憶していくのだと思います。ただし、それは知識の領域でなく、感情や反応の領域のようです。知識の領域での記憶は4,5歳にならないとできてこないようです。

子どもは生まれ落ちて、感情や反応の領域が完成させていくと同時に、その子どもに関わる人の感情や反応を受け入れて、自分の感情や反応の基本を完成していきます。その間はまねであり、親やその子どもに関わる人はおもちゃのような子どもを感じているでしょう。けれど子どもの感情や反応の仕方が完成したときには、子どもはその完成した感情や反応の仕方で反応をするようになり、まねの行為がその分少なくなります。
【2005/06/09 21:00】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

勉強をする

勉強させるというのは、大人の発想です。子どもはおもしろいから、又はご褒美が欲しいから、勉強をしています。そして多くの子どもは、勉強しないと叱られるから勉強をしています。とても効率の悪い勉強をしています。

役立たないから勉強をしないという意味は、きっとその子どもなりに興味がないからに属すると思います。本当に役立つかどうかを子どもが知るには大人にならないと分からないと思うからです。

興味がない勉強を、子どもにして貰うには、ご褒美をあげるか、恐怖を与えるかの方法があります。現在の学校の多くは恐怖を与えることで勉強をさせようとしています。勿論先生方はそのつもりはないのですが、子ども達はそのように理解しているからです。その結果、先生方にはそのつもりはなくても、子ども達の心は傷ついていきます。現在の子ども達の問題を生じています。

学校の勉強は、子どもがその気になれば短時間に追いつけます。たとえば中学生年齢の子どもがその気になって小学生の勉強をはじめると1~2週間で追いついた子どもを経験しています。高校生年齢の子どもがその気になって中学校の勉強をはじめたなら、2~3ヶ月で追いついた子どもを経験しています。

普通の大人でも、大学時代に勉強したこととは全く関係ない職場に就職して、全く新しいことをその人なりにマスターして仕事が可能になっている人は多いです。

それでは何のために、子ども達は勉強するのでしょうか?
【2005/06/08 13:32】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

前頭前野

何かあると、突然強い反応を起こして、怒りだしたり、泣いたり、パニックになったり、犯罪行為に走る人がいます。これらの人は、自分の感情を自分で調節できない人、調節が下手な人です。感情を調節するには、それなりの努力が必要です。この努力が出来ない人というのはなぜそうなるのか、考えてみます。

喜びや怒りなどの感情をコントロールする部分は、前頭葉の前頭前野と言うところです。このの脳神経細胞の軸索が全て完全に随鞘化されるのは思春期です。それまでは前頭前野の神経細胞は正常に機能しないのが当たり前の状態です。感情を意志でコントロールすることができません。

前頭前野の神経細胞の軸索が随鞘化されても、直ぐに感情を意識的にコントロールできません。それなりのトレーニングが必要です。そのトレーニングをしてこなかった人が、感情を抑えることができない人と、感情的な人、切れやすい人、と周囲から理解されます。

なぜトレーニングができなかったかというと、トレーニングをする機会が無かった、要求されるような環境下になかったということでしょう。その結果、その反応は子どもの反応ににています。子どもっぽいと表現されます。これは本来感情を制御できるはずなのにできていないという意味を示しています。
【2005/06/07 15:04】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

社会に順応

子どもは社会集団の中で主体的に順応しようとして成長します。集団に妥協と言う形ではありません。妥協は子どもを大変に苦しめて、子どもが上手に社会集団との距離を取ることを、できなくさせてしまいます。子どもは一人前の人間です。自分の判断で、自分の納得する距離の取り方を練習する必要があります。

学校の勉強が子どもの価値を決めていると考えている人たちがいます。学校の成績とは、その時点での、子どもの反応を調べただけです。それで将来が決まるわけではないです。それよりも将来、その子どもの能力が伸びて、十分に発揮されるような対応が必要です。それなのに、学校の成績で子どもを評価するから、子どもは学校の勉強が嫌いになり、やる気がなくなります。

発達障害が存在していると考えている人たちがいます。これは存在しない物を存在しているとして、子どもに当てはめることの問題点を考えなければなりません。

子どもを大人が作り替えることができると考えている人達がいます。子どもは知識的には大人に比べて不十分です。けれど立派な人間です。その子どもの意志で生きていきます。その意志を無視して大人が介入したときには、子どもは社会や学校に不適応を起こしてしまいます。

大人の頭の体操で、子どもの心を無視した対応は、ますます子どもを窮地に追い込み、希望しない子ども達を作る原因になります。
【2005/06/06 20:23】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(2) |

回避系の刺激

人間を含めて全てのほ乳類では、回避系の刺激=嫌悪刺激=恐怖刺激を受けると
逃げ出します。
逃げ出せないときには暴れます。
暴れられないときにはすくみの状態になります。

このすくみの状態が、人間の子どもの場合の元気のなさに相当しています。

回避系の刺激が弱いと、少しだけ元気がなくなります。回避系の刺激が強いと、子どもははっきりと分かる症状を出して、元気のない状態になります。

人間の場合、この回避系の刺激が加わっていることが分からない場合が多いです。原因もなく、子どもが元気を失っていると判断される場合です。原因が無いと大人が考えても、それはその大人が気づかない回避系の刺激が子どもに加わっているからです。

心の傷がある場合にはその反応が強く出るという意味になります。
【2005/06/05 20:48】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

専門家

子どもの本心が納得(情動が安定している)して成長する必要があります。

子どもの能力や反応の仕方が、普通と考えられるものから極端に外れていることを修正しようとしたり、低いと考えられる能力を強化させようとするのは、一見もどものためのように考えられます。けれど子どもの立場から言うなら、子どもが本心から望まない(情動が接近行動を取らない)限り、悪いことです。それは子どもを拷問するような物ですから。

余裕のある子どもには、常識的な対応で良いのですが、余裕のない子どもには、その子どもの欠点や弱点を指摘しない方がよいです。指摘されても子どもはそれを修正できないし、子どもはそれを自分の否定と理解しますから、指摘することが間違いです。

客観的に発達障害と示すことができるのでしたら、それはそれなりの対応が必要ですが、それがない限り、子どもの意志に沿った対応が必要です。大人の勝手な判断で対応するぐらいなら、しない方が子どものためです。

専門家とはそればかりをしていて、他のことが何も見えないという意味だと思います。子どもの心の立場から考える必要があります。現在の専門家といわれている人の中に、子どもの心を客観的に捕らえているひとは、私の見る限り存在していません。子どもの心はこうなっていると決めつけて行っているだけです。
【2005/06/04 21:14】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

辛い状態の子ども達の心

私たちの生活は科学の裏付けで保証されて成立しています。勿論、誰もそのことを意識して生活していません。自然現象をそのまま認めて、それを利用して生きています。その自然現象の仕組みを人間の理解できる形で表現したのが科学です。

脳の機能の表現が心なら、心も科学で表現できるはずです。しかし、心に関してはまだ科学の裏付けを求めようとしていません。科学の裏付けを求めたら、私のような意見になり、現在の心理学や精神医学がひっくり返り、多くの大人が困るからです。科学的に心を見ると言いながら、本質的なところで科学を排除しています。

でも、辛い状態にある子どもは現在の心理学や精神医学がひっくり返えらないと、救われないのです。間違えて欲しくないのは、多くの元気な子どもでは、このようなっことを考える必要がないのです。今までの私たちの経験で子育てが可能なのです。しかし辛い状態の子ども達の心は、現在の常識の外にあります。

脳を科学的に考えたことを基本にした心理学は常識の外にある場合が多いです。そして辛い状態の子ども達の心は科学に根ざした心理学がよく当てはまります。辛い状態の子ども達の心を知るのに必要なのは思いつきではなくて、客観性です。心にも客観的に捕らえる必要がある時代に入っています。
【2005/06/03 18:45】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

平均値からずれている

所謂障害児に関して「平均値から極端に外れている能力を強化するのに手を貸すことは悪いことではありません」というMSGをある人から貰いました。身体に関する障害でしたら、このMSGは間違いではありません。けれど心に関する所謂障害児に関しては間違いだと思います。

その理由は、平均値という物が存在しないからです。障害の程度を測定しようがないから、例え仮に平均値という物が考えられたとしても、人によりその平均値の判断が違うことです。傾向はあるでしょうが、その傾向ですら、文化により大きく異なる場合があります。ありもしないその平均値という物を押しつけられた子どもは大変に辛くなるという事実もあります。

平均値というものがないとこにもってきて、その平均値から極端に離れているという、離れ具合の測定法もありません。心に関する所謂障害児と言われる子どもにとって、その瞬間のその子どものあり方が、その子どもにとって普通と感じているのに、その子どもと全く関係ない平均値という物を押しつけられて、また、その平均値から極端に外れているという判断を押しつけられて、その子どもは周囲から否定されていると感じてしまいます。

その子どもが望まない限り、心に関する平均値とか、平均値からかけ離れているとかと、周囲の人が判断することは、その子どもにとって悪いことです。それは子どもを拷問するような物ですから。
【2005/06/02 21:16】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

自然の摂理

科学とは、自然の摂理=法則をいかに見つけて表現するかという、分野です。

自然の摂理の見つけ方には、二つの方法があります。
一つは、私たちの経験を集積して、その経験の間に存在する、一つの傾向を見つけることです。その傾向には例外があってはならないのです。

もう一つは、その得られた自然の摂理から、別の摂理を導き出す方法です。その導き出された摂理が間違っていたなら、その導き出す元となった摂理が間違っているか、又は導き出し方が間違っていたことになります。

現在の心の問題は、ほとんど全てが、ある人の経験から、その人なりの摂理を導き出して、成り立っています。その摂理には人(または研究者)の違いによる同一性がありません。研究者により摂理が異なっています。
心を規定する要素が多すぎて、条件設定が大変に難しいという問題が、心の場合にはあるからです。

また、心の問題は、心の状態や反応を、測定可能な尺度で測ることができないという問題点があります。それでも心理学などでは、いろいろな測定法を考え出してはいますが、それらの測定法に、客観性がありません。測定者によりその判断が異なるからです。

その結果は、統計学を用いて心の問題を分析したとしても、そこには一見客観性があるように見えますが、きわめて観察者に依存した、偏りがあります。客観的ではありません。

現在、心の問題を自然の摂理に沿って考えることは大変に難しいです。けれど脳の機能は自然の摂理に沿って働いています。その脳の自然の摂理に沿って導き出された結果は、その導き出し方が間違っていない限り、自然の摂理に沿った結果になります。
【2005/06/01 20:53】 不登校 | トラックバック(0) | コメント(0) |

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